2012年3月17日から21日まで、カンボジアのアンコール遺跡群へ行ってきました。
ここにカンボジアの歴史について書いておきたいと思います。

 

「カンボジアの歴史」

●クメール王朝時代

 カンボジアがクメール王朝として栄えたのは9世紀から13世紀です。しかし、安定した世襲制が続いたわけではなく、ガイドのソックさんが「下剋上」と言っていたとおり王位を巡る勢力争いや隣国との戦争が続いていたようです。12世紀にはアンコール・トムに王都が置かれ、インドシナ半島全域を支配し、最盛期を迎えて、多くの寺院などの石造建造物が造られました。その後、13世紀に入ると、元の侵攻、シャム(アユタヤ王朝)の侵攻が始まり、しだいに国力が衰え、17世紀から19世紀にはタイやベトナムの侵略や干渉が続きその支配をうけることとなります。

●植民地時代

 19世紀中頃からフランスによるインドシナ半島の植民地化が始まり、1858年にフランスのアンリ・ムオがアンコール遺跡を発見しました。1863年にフランス・カンボジア保護条約が調印され、1887年にはカンボジアがフランス領インドシナに編入されます。

 1940年にフランスは日本との間に「政治軍事・経済協定」を締結し、フランス領インドシナに日本軍の進駐を認めます。1945年に、ノロドム・シアヌーク王は、日本軍の明号作戦に呼応する形で、カンボジアの独立を宣言しますが、日本軍が連合国に降伏したため独立は消滅してしまいます。しかし、その後も粘り強く独立運動を続け、1949年にフランス連合内での独立を獲得します。1953年には警察権・軍事権を回復し、完全独立を果たします。

●カンボジア王国(1953年〜1970年)

 1955年アジア・アフリカ会議において、シアヌークは非同盟・中立外交政策を表明し、1957年に永世中立法を公布しますが、ベトナム戦争の激化と共にその影響を受け、大国の思惑に巻き込まれていきます。1965年にシアヌークは北ベトナムへの爆撃を行うアメリカ合衆国との断交を宣言。1968年からアメリカのカンボジア空爆が始まります。

●クメール共和国(1970年〜1975年)

1970年には、アメリカに後押しされた親米派のロン・ノルがシアヌークの外遊中にクーデターを起こし、シアヌーク一派を追放、クメール共和国の樹立を宣言します。ロン・ノルは激しい反ベトナムキャンペーンを行い、南ベトナム解放民族戦線への支援が疑われるカンボジア在住のベトナム系住民を迫害・虐殺し、シアヌーク時代に50万人だったベトナム系住民のうち20万人がベトナムに大量帰還する事態になりました。続いて、ホーチミン・ルートを粉砕するために、アメリカ軍と南ベトナム軍に自国を侵攻させ、さらに、アメリカ軍によるカンボジア空爆をカンボジア全域に拡大させ、数十万人の農民が犠牲となって、1年半の間に200万人の国内難民が発生。ロン・ノルは国民の不人気を買って、反政府活動が激化することとなります。

クーデター後、シアヌークは中国に脱出し、カンプチア民族統一戦線を結成して、反ロン・ノル諸派の共闘を呼び掛け、それに協力し、共にカンボジア帰国を果たしたのが毛沢東主義に心酔したポル・ポトらが指揮する「クメール・ルージュ」でした。ポル・ポトはシアヌークを擁立してロン・ノル政権との間で内戦となりましたが、1973年にアメリカがベトナムから完全撤退したことにより、ロン・ノルは強力な後ろ盾を失い、1975年にロン・ノルは国外へ脱出、クメール共和国は降伏してクメール・ルージュが政権を握ることとなります。

●民主カンプチア(1976年〜1979年)

 首都プノンペンに入城したクメール・ルージュは、都市部の住民を強制的に農村へ移住させました。プノンペンの住民は、重病人も妊婦もすべて強制的に立ち退かされ、行き先も教えられないまま炎天下を徒歩で移動させられたため、行き倒れになるものが続出し、大量の死者がでました。

 クメール・ルージュは貨幣制度を廃止し、都市住民の農村入植と強制労働という極端な原始共産主義への回帰政策を実施しました。そして旧政権の関係者、都市の富裕層、知識層、留学生、クメール・ルージュ内の親ベトナム派などを虐殺。ポル・ポトは毛沢東主義に心酔し、国民に人気のあったシアヌークを担いでカンボジアに戻ると、シアヌークを幽閉同然にして、自分の思い通りに国を改造しようとしました。

 シアヌークが統治していた時代のカンボジアは食糧も豊かでしたが、その後の爆撃や内戦で、1975年当時のカンボジアは食糧事情が危機的状況にあり、クメール・ルージュの強制移住・農業重視の政策は食糧増産をねらったものと思われますが、非効率、非科学的、非現実的なやり方がかえって食糧危機を増大・深刻化させることとなり、飢餓と虐殺、マラリアの蔓延などで、正確な数字は分かっていませんが、100万〜200万人を超える死者が出たと言われています。

 ポル・ポトは、自らがフランス留学もしたエリートでしたが、自分と同じようなインテリ層を「ブルジョア」などというレッテルを貼って徹底的に弾圧しました。初めは医師や教師、技術者を重用すると言って申告させ、外国に留学している者にも国の再建のためにと帰国を呼び掛け、それらの人々をどこかへ連れ去りました。やがて連れ去られた者が全く帰ってこないことが知れるようになって、教育をうけた者は皆、無学文盲を装って逃れようとしたため、眼鏡をかけている者や文字を読もうとした者など、少しでも学識のありそうな者を片っ端から収容所に送って殺害しました。また、無垢で知識の浅い子どもが重用され、少年兵が多く、子どもに手術などもさせていたと言います。もちろん医療知識などなく、手術といって、切り刻まれて死ぬだけというひどいものだったといいます。

 1978年1月にポル・ポトはベトナム領内を攻撃し、ベトナムと断交します。この頃、ベトナムはソ連との関係を強化していて、当時の中ソ対立の構図から、中国と関係の深いポル・ポト政権と対立することとなりました。5月にはポル・ポトへの反乱の疑いをもたれた東部軍管区(ベトナム系カンボジア人が多い)を攻撃し、東部地区の大量のクメール・ルージュ将兵が処刑されました。そのため、ベトナムに10数万人にのぼる東部地区軍民の避難民が流入しました。

 1978年12月にベトナム軍が、亡命カンボジア難民からカンプチア民族救国統一戦線を組織し、元クメール・ルージュ将校でベトナムに亡命したヘン・サムリンを擁立して、ポル・ポト打倒を掲げてカンボジアに侵攻しました。

 1979年1月6日にベトナム軍がプノンペンを攻略、幽閉状態であったシアヌークは再び北京へ亡命し、クメール・ルージュはタイ国境近くまで駆逐されます。

 皮肉なことにベトナム軍の侵攻によって、カンボジア国民はポル・ポトの恐怖支配から解放されることになりましたが、すぐには平和は訪れず、その後も長い内戦が続きます。

●サムリン政権(1979年〜1991年)

 1979年1月10日に親ベトナムのカンプチア人民共和国がされますが、ヘン・サムリンのカンボジア人民党による政権は、ベトナムの傀儡政権であるとして世界各国の承認は得られませんでした。

 同年2月に中国軍がカンボジア侵攻の報復としてベトナムを攻撃。しかし、中国は実戦経験豊富なベトナム軍に惨敗して3月には撤収しました。1981年6月にサムリンは新憲法を採択し、フン・センが閣僚評議会副議長(副首相)に就任します。

 1982年2月、巻き返しを図る反ベトナム3派(ポル・ポト、シアヌーク、ソン・サン)は北京で会議を開き、7月には3派による「民主カンプチア連合政府」が成立し、サムリン政権と内戦状態に入ります。

 1983年2月にインドシナ3国首脳会談でベトナム軍の部分的撤退が決議されましたが、3月にベトナム軍はポル・ポト派の拠点を攻撃します。

 1984年7月に東南アジア諸国連合外相会談で、駐留を続けるベトナムを非難する共同宣言を採択。しかし、ベトナム軍は内戦に介入し続け、1985年1月に民主カンプチア連合政府の拠点を攻略し、3月にはシアヌークの拠点を制圧しました。

 1988年3月、ベトナム首相ファン・フンが急死し、政変が起こると、6月にベトナムは軍の撤収をはじめ、1989年9月に撤退を終えました。その結果、当時首相に昇格していたフン・センはベトナム軍の支えを失って弱体化し、内戦はさらに泥沼化することとなりました。

1990年6月に東京でカンボジア各派が参加する和平に向けた直接対話の場として「カンボジアに関する東京会議」が開催され、続く1991年10月にカンボジア和平パリ協定が開催されて、最終合意文書(「国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)」の設置、武装解除と内戦の終結、難民の帰還、制憲議会選挙の実施など)の19ヶ国による調印に達し、20年に及ぶカンボジア内戦が終結しました。

●現代「カンボジア王国」

 カンボジア和平パリ協定でフン・セン政権と民主カンプチア連合政府を合わせた4派によるカンボジア最高国民評議会(SNC)が結成され、翌年1992年3月より、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC。事務総長明石康)が平和維持活動を始めました。

 1993年5月には国民議会総選挙が行われ、立憲君主制が採択され、同年9月23日に制憲議会が新憲法を発布しました。9月24日、シアヌークが国王に再即位して、カンボジア王国が、およそ23年ぶりの統一政権として誕生しました、自由で公正な選挙、選ばれた議会の憲法発布・政府設立を見届けて、UNTACの暫定統治は1993年9月に終了しました。

 ポル・ポト派は選挙に参加せず、新しい連立政権と戦い続けましたが1996年ころまでには軍は堕落し規律も崩壊して、数人の重要な指導者も離脱。1997年に、ポル・ポトは政府との和解交渉を試みた腹心のソン・センとその一族を殺害しました。しかし、その後クメール・ルージュの軍司令官タ・モクによって「裏切り者」として逮捕され、終身禁固刑(自宅監禁)を宣告されましたが、1998年の4月にタ・モクは新政府軍の攻撃から逃れて密林地帯にポル・ポトを連れて行き、1998年4月15日にポル・ポトは心臓発作で死亡したと伝えられています。しかし、遺体の爪が変色していたことから、毒殺もしくは服毒自殺の可能性もあると言われています。12月にはポル・ポト派幹部が国民へ謝罪し、2001年1月にポル・ポト派幹部を裁くカンボジア特別法廷の設置が国際連合との間で取り決められました。この裁判は現在もまだ続いています。

 2004年10月14日にシアヌークが退位し、息子のノロドム・シハモニが国王に即位しました。ポル・ポト派は消滅し、現在は政治も治安も安定してきています。

 

◎東西冷戦と中ソ対立、大国の思惑に翻弄されたカンボジア

 カンボジアがなぜポル・ポトの支配と長くに渡る内戦に苦しまなければならなかったかということには、当時の米・中・ソの対立が大きく関わっています。ベトナム戦争がなければ、カンボジアの悲劇は起こらなかったでしょう。ソ連と関係の深かったベトナムと対立するアメリカ、カンボジアは右派も左派も昔から反ベトナムが多いこと、中国の毛沢東思想に心酔したポル・ポトという関係が問題を複雑化させています。アメリカはベトナム戦争を有利に導くために親米のロン・ノルを援助して、クーデターを成功させ、カンボジア領内の北ベトナムの拠点と補給ルートを遮断するため、カンボジア侵攻と爆撃を行いました。それによりカンボジアは否応なくベトナム戦争に巻き込まれていきました。それが反政府運動に繋がり、ベトナム戦争のアメリカ敗退により、ポル・ポト派がロン・ノルを追い出してカンボジア支配に成功するわけです。しかし、4年にわたるポル・ポトの支配はベトナム軍の侵攻でタイ国境近くまで敗走します。

しかし、親ベトナム政権の樹立に対して、ポル・ポトが反ソ連・反ベトナムだったため、アメリカと中国は共に新政権に反対し、ポル・ポト派を支援したのです。ポル・ポト派はアメリカの支援を受けやすくするため「もはや、共産主義を信奉していない」と表明したりします。それによりポル・ポト派は延命し反ベトナムでカンボジア3派が共闘して親ベトナムのサムリン政権との内戦に突入することになったのです。

 ベトナム戦争もカンボジア内戦も大国の代理戦争であり、ベトナム戦争がなければカンボジアの悲劇は起こらなかったと言えるのです。

 ポル・ポトは毛沢東思想を信奉していましたが、毛沢東の中国の文化大革命では国民は出身階級で色分けされ、反動分子などのレッテルを貼られて処刑された犠牲者が少なく見積もっても1000万人以上いたと言われています。

 

◎キリングフィールド

 「キリングフィールド」という映画がありますが、1984年に公開された英国映画で、1984年のアカデミー賞で助演男優賞、編集賞、撮影賞の3部門を受賞しています。ニューヨークタイムスの記者、シドニー・シャンバーグとその助手のカンボジア人のディス・プランの実話に基づいた物語で、クメール・ルージュの虐殺が始まり、プランを国外脱出させることに失敗したシャンバーグがポル・ポト政権下で身分を隠して生き延び、脱出したプランと再会するまでを描いています。プランが村を脱出した時に積み重ねられた白骨が延々と続く荒野に踏み込む場面は衝撃的でした。この映画にプラン役で出演し、助演男優賞をとったハイン・ニョルさんは俳優ではなく、カンボジアの元医師で、ポル・ポト政権下を身分を隠して生き延びた一人でした。その後、ニョルさんは、自らの体験を「キリングフィールドからの生還」という本に書いています。それは、映画よりも壮絶な体験でした。しかし、彼は1996年にロスアンゼルスの自宅前で何者かに射殺されて亡くなってしまいました。

 ポル・ポト政権時は、外部との接触を断たれた鎖国状態であり、住民は国外脱出することもままならず、外からその内情を知ることはできませんでした。解放後に穴に無造作に積み重ねられた白骨死体の山を発見し、生き残った人たちの証言からその実態が少しずつ明らかになってきました。その後、続いた内戦によって、カンボジアから多くの難民が流出することとなります。

 首都プノンペンにはトゥールスレン虐殺博物館があります。プノンペンには行けなかったので観ることはできませんでしたが、ポル・ポト政権下に学校を改装した政治犯収容所の跡で、東洋のアウシュビッツと言われ、ここでたくさんの無実の人々が拷問を受けて亡くなりました。発見当時には拷問を受けて亡くなったばかりの人たちが置き去りにされていて、その生々しい写真もあり、番号を付けられた収容者の写真や看守の子どもたちの写真も展示されているそうです。収容者の生前の写真や処刑後の写真はすべて記録され、中国共産党に対して「反革命分子撲滅」の成果を示すために送られていたそうです。床には当時の血痕もまだ残っていて、クメール・ルージュに洗脳された10代の「子供看守」が同国人を拷問し死に追いやっていたのです。その看守たちもやがて施設の秘密を守るためにここで虐殺されたそうです。この収容所に収監されて解放時に生き残っていたのは8人だけだったとのこと。プノンペンの郊外や各地には後に「キリングフィールド」と名付けられた当時の処刑場の跡があり、そこの穴からおびただしい白骨が発見されました。

 

◎現在のカンボジア

 内戦が終結したことによりカンボジアには平和が戻り、街も活気を取り戻して、アンコール遺跡には多くの観光客が訪れています。

 しかし、ポル・ポト支配と内戦による影響は今も大きく残っています。ポル・ポトは地雷を「完全な兵士」として賞賛し、数多く埋設し、内戦後も地雷により多くの犠牲者が出ています。現在も地雷をすべて撤去することは出来ていないため、毎年犠牲者が出ていて、個人で観光する場合は、安全と保障されている場所以外への立ち入りは絶対にしてはいけません。また、ポル・ポト時代には貨幣が廃止され、その後も政治が安定するのに長い時間がかかったため、カンボジアの貨幣は信用度が低く、カンボジア国内でも一番信用度が高いのはUSドルです。外国人観光客が多く利用する場所ではUSドルでほとんど通用します。でもコインは使えないため、お釣りはカンボジアのリエルになります。

 ポル・ポトは、知識階級を抹殺し、すべての本を焼きつくし、学校教育の廃止、宗教活動の禁止、家族と離れ年代ごとの集団生活の実施、伝統的文化(民族の伝承、歌、踊り、民話など)の禁止など、それまでの社会システムをすべて崩壊させました。伝統的文化は老人が覚えていたものや文化的共通点のあるタイから学び、本は戦前に国外に持ち出されたものを収拾して失われた文化を取り戻しつつありますが、今も教師や医師のレベルは低く、ガイドのソックさんの話でも大きな病気や怪我は、カンボジアの医療では助からないので、国外の病院へ行かなければだめだと言っていました。子ども医療についてはNP0による外国人ボランティア医師の病院があるため子どもの死亡率は減ったそうです。海外からのODAの資金協力や技術協力、NPOのボランティアの力がまだまだ必要です。遺跡の修復による観光収入も復興の為の大きな資源となっています。

 一方、クメール・ルージュ幹部の裁判では刑が確定したのは1人だけ、まだまだ裁判は続いていて、ガイドのソックさんは、「私たちが知りたいのは、どうしてこんなことになったのか、ということなのに、裁判では何も明らかになっていない。」と言っていました。まだ、内戦の頃は子どもだったと思われるソックさん、当時は14歳で徴兵に取られるので、子どもたちは一つ所に留まらず、引っ越すたびに名前と年齢を変えて徴兵を逃れている子がたくさんいたという話もしていました。