もの申す!

                                            

 ジオログ記載のものを転記して、まとめてみました。

 字は加筆した部分です。

 

 

 2006年8月9日

  和泉元彌氏について、ノンフィクションライター西本公広氏が本人へのインタビューも交えた新しい本を出しています。「狂言師がそんなに偉いのか」 という題ですが、1,300円もするので、買ったわけではありません。他からたまたま手に入ったので読んでみました。内容は、元彌側の主張に沿ったも ので、目新しい事実の発見はありませんでした。他のメディアのバッシングに対する反論ということでしょうか、全面的に元彌側の主張を肯定し、補強したものという印象でした。

  それについて、少し書いてみました。人物の敬称は略しますので、あしからず。

【はじめに】

  元彌は「600年、和泉流宗家の芸を継承してきた」という主張を繰り返して、代々の宗家の継承について、嫡男(嫡男がいない場合は養子縁組)により継いできたと言っています。それはよいのですが、それが宗家の芸を継承してきたという証明にはなりません。そもそも、600年(佐々木岳楽軒からということらしい)一子相伝、口伝で伝えてきたという和泉流宗家の芸とは何なのか?

【和泉流】

  狂言のことを少し知っている人なら和泉流が“一流一系”でないことは周知のことでしょうが、江戸時代に能楽が武家式楽になるために流儀を作らなければならない情勢になり、先に大蔵流、鷺流が出来ました。当時京都で活躍していた山脇和泉守元宜は一家だけでは流儀を作れないため、やはり京都で活躍していた野村又三郎と三宅藤九郎を、それぞれの家の台本を使うことと、中伝以下の免状を発行してよいという条件で、宗家には山脇和泉守がなりましたが、いわば客分として二人を迎え入れて成立させたのが和泉流です。その後、山脇家と野村又三郎家は尾張徳川藩に、三宅家は加賀前田藩のお抱えとなりますが、それぞれの芸系は現在に至るまで統一されることなく伝えられています。つまり、山脇派、野村派、三宅派といわれている三派は、途中で分派したのではなく、初めから別々の芸系だったのです。

【宗家の芸系】

  では、和泉流宗家の芸というと、代々山脇家が宗家を継いできたということから考えれば、山脇派の芸ということになりますが、17世が亡くなって跡継ぎが絶えた時から“一子相伝、口伝”によるという宗家の芸の継承は絶えてしまったことになります。宗家不在となった一時期、和泉流の宗家預かりとなった能の宝生宗家の取り計らいで18世を継いだのは、16世の娘婿ですが、すでに中年になっており、今まで狂言をやったことが無い人だったため、宗家になってから、6世野村万蔵や9世三宅藤九郎に狂言を習いに行っています。野村万蔵家は加賀前田藩お抱えだった三宅藤九郎家の弟子ですが、その三宅家も跡継ぎが無く断絶していたのを、6世万蔵の弟、万介が養子となって師家を再興しています。それが、9世三宅藤九郎であり、どちらも三宅派の芸系であることに違いはありません。

  しかし、山脇“宗家”の芸の継承は絶えてしまっても、山脇派の芸系が絶えたわけではありません。宗家が亡くなり有力な弟子達も亡くなって、名古屋に残された当時素人弟子だった人たちが山脇派の芸系を残すために結成したのが「狂言共同社」であり、現在は皆プロの狂言師として活躍しています。

  話を戻しますが、その後18世は女性問題で離縁され、宗家も引退することとなり、またしても宗家不在となった和泉流は、再び宝生宗家が中に入り、16世の娘に養子をとって宗家を継がせることになりました。その時養子になって宗家を継ぐことになったのが9世三宅藤九郎の長男保之(当時6歳)、後の19世宗家和泉元秀(元彌の父)です。父親である9世三宅藤九郎が後見となって専ら芸を教えたわけですが、9世藤九郎は宗家ではないし、教えたのはもちろん三宅派の芸なのです。だから、「宗家は弟子家から芸を習うことは出来ない」というのは、嘘になります。18世も19世も和泉家側が言うところの“弟子家”から芸を習っていたわけですから。

  となると、“宗家の芸を600年、一子相伝、口伝で継承してきた”というのは、どう考えてもあり得ない話なのです。元彌が父元秀からどのように芸を習い継承してきたかを長々と論じてみても、宗家の芸を継承しているのは自分だけだと声高に叫んでみても、その父親以前に宗家の芸の継承は断絶しているからです。

【宗家の継承】

  次に、宗家継承の手続きについて、代々嫡男または養子という世襲で継承してきたとはいえ現在は封建時代とは違い、長男であれば無条件に宗家になれると言うわけではありません。流儀内の推薦を受け、宗家会が了承して初めて正式な宗家となります。その手続きが済んでいないから、能楽界(能楽協会ではない)で宗家として認められていないのです。しかし、他の狂言師も初めから元彌の次期宗家継承を反対していたわけではありません。20歳になったとはいえ、芸も人格もまだ未熟な元彌に対し、宗家預かりを置いて、他のベテラン狂言師の指導を受けて精進した後、宗家になればよいとの話であり、「40,50は洟垂れ小僧」と言われる古典芸能の世界では珍しいことではありません。この時も、宝生宗家が和泉家から宗家継承について相談を受け、萬・万作兄弟の指導を受けて芸に精進するよう勧めたということですが、それを、「弟子家に習うことなど無い」と言い放つこと自体甚だしい驕りといえます。何の話し合いもないまま、本来普通の狂言会であったものを、急遽「和泉流20世宗家披露」に変えて強行した強引さ、母親の放言を押さえられないどころか、言いなり、あるいは本人もそう思っていたと思われること自体が、他の和泉流狂言師の危惧したことではないでしょうか。一流儀は一家だけで成立しているわけではありませんから、少なくとも近年において宗家継承は他家の推薦や同意があってなされてきたのです。

【19世宗家和泉元秀】

  本では、先代元秀を偉大な宗家といっていますが、生前の負の部分については何ら触れられることはありません。他家が職分会を作って宗家継承に異を唱えた時、なぜ和泉家以外の和泉流狂言師全員が職分会に加わって、反対の署名、捺印をしたのでしょうか、宗家継承に賛成ならば名古屋を本拠地とする野村派野村又三郎家や山脇派狂言共同社は、東京の三宅派野村万蔵家と関わらなくとも名古屋で活動を続けることはできたはずです。しかし、先代宗家元秀の宗家の権威を私物化したともいえる強引なやりかたが反発をかっていたことと、元彌の宗家継承を既成事実化しようとする強引なやりかたに、同じことを繰り返される脅威を抱いたのではないでしょうか。

  先代の元秀と弟の三宅右近との間には確執があり、元秀が宗家の権威を利用して重要な曲を披くのを認めなかったり、右近を理由も明らかにしないまま謹慎処分にして、狂言が行えないようにしたり、右近の弟子が能楽協会の会員になるのに印を押さなかったりしたといいます(当時は、宗家の印がないと協会員になれなかった)。能楽協会員=プロの能楽師であるから、弟子がいくら修行を積んでも、宗家の気に入らない家の弟子はプロになれないということになってしまいます。現在は能楽協会の約款が改正され、宗家の推薦が無くても、理事の三分の二の推薦があれば協会員になれることになったのは、そのためと言われています。また、和泉流の芸を三宅派に統一しようとして反発を買ったという話もあります。そのうえ、10世三宅藤九郎の大名跡を娘に継がせたことに対する周囲の不満と疑惑もありました。当時、9世藤九郎は病床にありましたが、入院先は和泉家以外、兄弟親戚にも、能楽関係者にも知らされず和泉家が隠していたといいます。そんな中で、元秀が9世の意志だとして次女祥子に10世藤九郎を継がせました。和泉家以外の外部との接触が遮断されたなかで、9世はどんな話を聞かされていたのか、本当に9世の意志だったのかは分かりません。しかし、9世の死後、父親であり、師であり、自分たちが最期を看取ったという9世藤九郎に対し、和泉家は一周忌追善公演を行う様子もなく、結局、一周忌追善公演を行ったのは、和泉家に疎まれた三宅右近だったそうです。はたして、せっかく再興した三宅藤九郎の大名跡は今後どうなるのでしょう。

【和泉流の宗家と大蔵流の宗家】

  和泉流ではそれ以前にも、16世、18世も宗家の権威を利用して破門権を発動するなどしたので、人望がなかったそうです。元彌も職分会代表幹事の井上祐一(現・菊次郎)が「元彌は宗家ではない」と言ったとして、破門を言い渡しています。それは無視されましたが、まったく愚かな行為です。宗家が世襲でなければ、権力争いが生じるといっていますが、時代錯誤の独占権威を持っていることの方が問題ではないでしょうか。

  大蔵流も和泉流と同じく、本来の宗家の嫡男相続は途絶えていますが、当時ほとんど狂言師として活動していなかった大蔵流の23世が姉の孫娘を養女とし、それに茂山忠三郎家の養子、善竹弥五郎の次男が婿養子となって、宗家を再興させたのが今の大蔵宗家の先代です。しかし、和泉流と違っていたのは、先代宗家が流儀内の“和”を大切にする人であり、たいへん良くできた人物であったといわれている点でしょう。

【宗家の芸】

  宗家は、芸が上手くなければならないというわけではありません。ただ、元彌が「宗家の芸は、あくまで和泉流狂言の基本、つまり、教科書であることが求められるからです。巧く演じたり、味わい深く演じることをめざすのではなく、代々伝わってきた技を正しく演じて今に伝えるのが、宗家の芸なのです」というのは、前述のごとく、今の和泉家の芸が“和泉流の基本”だという論理に首を傾げるばかりです。それはさておき、20代までは、基本を叩き込まれる時期であり、自分の芸を磨くのはそれからですが、その時期に自己流になって基本を忘れないよう、常にベテランの注意が必要であり、他人に教わることなどないと思ったら進歩は止まってしまうか後退してしまうものです。一生精進が芸の世界なのですから。

 また、職分会側は元彌の芸が下手だから宗家にふさわしくないとは言っていないのです。久々に元彌の舞台を観ての感想「学芸会なみ」(記事になったとおりの発言をしたかは疑問)を又聞きしたマスコミが勝手に記事にしただけで、宗家ならば芸が上手いはずというのは世間一般の誤解にすぎません。20歳で師匠である父を亡くした元彌に「稽古をつけてあげましょう」と言ったベテランの申し出を拒否したのは和泉家側ですから、進歩が無いとか、かえって悪くなったとか言われても本人の責任なのです。死んだ元秀の責任でもありません。先代宗家の芸をすべて継承しているのだから、“父を侮辱するのか”というようなキレかたをしたことがありましたが、それは責任転嫁ではありませんか?遅刻、ドタキャンも、元秀が生きていたころより下手になったと言われるのも、すべて本人の責任なのです。言っておきますが、「下手になった」と言うのは職分会だけが言っていることではありません。

  ある能楽評論家が「今の元彌はぜんぜん駄目だが、10年前の元彌には輝きがあった」と言っていました。20歳のころの彼には若いなりに輝き、時分の花があったということです。しかし、若さの輝きは歳とともに失せるもの、一番伸びる時期に優れた先輩たちの指導を受けず、舞台で共演したり、他の狂言の舞台を観て勉強してこなかったというのは取り返しがつかないかもしれません。
 私も2年くらい前に彼の狂言の舞台を観たことがあります。しかし、山伏がドンドンと足を踏みならして出てくるのには愕然としてしまいました。お弟子さんにもそのように教えているのでしょう、二人で歩くたびに足を踏みならすのが耳障りで仕方ありませんでした。あんな山伏の運びは見たことがありません。和泉流三宅派の山伏の運びは確かに足を上げて偉そうに歩きますが、下ろすときにはできるだけ音がしないように下ろします。そこに運びの美しさがあると思うのです。自分がお山の大将で、我流になっても誰も直す人がいないというのは恐ろしいことです。プライドよりも、本当に芸に対する真摯な態度があったならば、こんなことにはならなかったのにと、笑うより暗澹たる気持ちになったことを覚えています。

【宗家にこだわる理由】

  ただ、今回、本を読んでみて分かったことが一つあります。なぜ、元彌が宗家にこだわるかということです。子供の頃から大人になったら宗家になるのだと言われて、家族や内弟子からも若宗家といわれて育ってきた彼にとって、宗家になるのは規定の事実であり、それが認められないということは、今までの自分の人生を全否定されること、生きる目的を失うことと同じだと思っているからだということです。だから、残念ですが、今後もこの考えを変えることはないでしょうし、職分会や能楽協会と和解することもないでしょう。

  最後に、和泉家側は未だに退会処分になった事実について、遅刻ドタキャンではないと言っているようです。

  「狂言師がそんなに偉いのか」・・・?「宗家がそんなに偉いのか」じゃないですか?

 

2006年8月23日

【追記】

  この本の著者は元彌と西本公広の二人ということですが、全面的に元彌側の主張といってもいいでしょう。

  西本氏は、世間の批判や非難について一つ一つ聞いて、聞きにくいことも聞いたということですが、やはり表面的なことばかりで、もっと自分で十分狂言についても調査したうえで、主張に対する矛盾点をつっこんだ質問をするとかしなければ、知らない人は納得してしまうでしょうが、いままでの元彌側の主張を繰り返しているだけで、問題の本質をなんら明らかにしていないばかりか、相変わらずはぐらかしているとしか思えません。まあ、バッシングされている側に立って、言い分をそのまま流すという意味での本でしかありませんね。

  先代の観世宗家が急死したときに、今の観世宗家は、すぐに宗家継承はせず、継承にずいぶん気を使ったそうです。大蔵宗家も自分から宗家になるとは言わず、他の職分の方々の推薦があって、初めて宗家を継承しています。

  前にも言いましたが、流儀は一家で成っているのではありません。宗家といえど、いや、宗家だからこそ先輩の方々への礼儀、気遣いが必要なのです。流儀をまとめるということが宗家としての大切な仕事だからです。そうでなければ、今の狂言界には宗家は必要ないと言い切ってもいいでしょう。

【追記?アイについて】

  もう一つ、間(アイ)狂言についてですが、元彌は退会処分になる前から、能の一役として出るアイには、昔からの付き合いがある宝生流以外に呼ばれることがほとんど無かったようです。エピソードとして聞いているアイの大失敗について、母親がしゃしゃり出て開き直ったという話が本当だとしたら、能のシテ方が呼ばないのも無理ありません。他にアイの上手い狂言方はいくらでもいるのですから。

  アイは狂言師として大切な役柄です。アイの良し悪しによって能が壊れてしまうこともあるのですから。本狂言はやっても、アイができない狂言師は一人前とはいえません。元彌は以前からアイにはあまり出ていないようですし、現在では、能会に呼ばれることもないのですから修行のしようがありません。それゆえに、まだ未熟だから先輩狂言師の指導が必要だったのです。

  それに宗家預りというのは一時的に預かるということで、次期宗家継承者が一人前になって、だれもが納得する形で継承するまでの繋ぎなわけですから、宗家になるということではありません。それを宗家を取られると思って、前代未聞の行動に出たのは和泉家側ではないでしょうか。

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