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能楽鑑賞日記

2016年12月20日 (火) 大手町座第20回記念公演 亀井広忠プロデュース能楽舞台 三番叟
会場:日経ホール 19::00開演

「三番叟(さんばそう)」
 三番叟:野村萬斎
 千歳:中村修一
  笛:杉信太朗、小鼓頭取:鵜澤洋太郎、脇鼓:田邊恭資、清水和音、大鼓:亀井広忠
    後見:深田博治、月崎晴夫

舞囃子「乱(みだれ)」
 シテ(猩々):梅若紀彰、観世喜正
   笛:一噌隆之、小鼓:飯田清一、大鼓:亀井忠雄、太鼓:林雄一郎
    地謡:山崎正道、谷本健吾、坂口貴信、川口晃平

「若菜(わかな)」
 海阿弥:野村万作
 果報者:石田幸雄
 大原女:高野和憲、深田博治、内藤連、飯田豪、岡聡史
   笛:杉信太朗、小鼓:飯田清一、大鼓:亀井広忠、太鼓:林雄一郎
    後見:月崎晴夫、野村裕基

「三番叟」
 萬斎さんの三番叟は私は久しぶりです。年によっては、何回も観ることもありますけど。正月には裕基くんの三番叟披きも控えてますね〜。
 萬斎さんの三番叟には広忠さんですよね。広忠さんの気迫のこもった掛け声と萬斎さんのキレのいい動きと足拍子の力強さが凄い迫力です。黒い翁面の「鈴ノ段」は、さらに神懸った感じになります。鵜澤さん率いる3人の小鼓も気持よく合い、杉さんの笛も良かったです。
 「三番叟」のみの場合、千歳(せんざい)の舞はなく、「揉ノ段」が終わって、「鈴ノ段」の前の黒式尉との問答だけが出番ですが、台詞も安定して淀みなくピリッと引き締まった感じでした。

舞囃子「乱」
 能『猩々』で舞われる「中ノ舞」をミダレという特別な舞にしたもので、曲名も『猩々乱』または『乱』となります。
 「猩々」と言うのは古代中国の想像上の動物で、日本では、海中に住み酒を好み舞い戯れる少年の姿をした妖精だそうです。
 普通は赤頭に赤い顔の猩々の面をつけますが、舞囃子なので、黒紋付に袴姿での梅若紀彰さんと観世喜正さんの相舞でした。
 「乱」の舞には、海上で戯れる猩々たちが前に蹴り上げるような足使いや体を深く沈ませたり爪先立ちで横移動したりという面白い動きがあり、装束を着けていないので、身体の使い方がよく見え、お酒に酔いながら楽しく戯れる様はこっちも楽しくなりました。

「若菜」
 うららかな春のある日、果報者(資産家)が茶坊主の海阿弥(かいあみ)を連れて、野遊びに出かけます。梅を眺めたり、鶯を捕まえようとしたり、早春の景色を満喫していると、大勢の大原女たちが大原木を頭に頂いて、若菜を摘む様子を謡いながらやってきます。海阿弥が大原木について尋ねると、大原女たちが謡って答えるので、海阿弥は買い求めます。そして恥ずかしがる大原女たちを酒宴にむりやり誘って、果報者の元に連れて来ると酒盛りを始めます。海阿弥と大原女たちは様々な歌舞を謡い舞い、やがて、大原女たちが暇乞いの歌を謡うと、ともに名残を惜しむ歌を謡い合って、別れていくのでした。

 のどかな春の雰囲気と華やかな大原女たちと酒宴に興じて謡い舞うのが楽し気な曲です。万作さんの海阿弥が飄々として、ほんわかゆるゆるの良い雰囲気です。果報者の石田さんも楽しそう。最後は万作さんのシャギリ留めで、80をとうに超えた万作さんの軽快なケンケンには驚くと同時に思わず笑ってしまいます。
2016年12月18日 (日) 第13回善竹富太郎の狂言会SORORI
会場:国立能楽堂 14:00開演

おはなし:善竹富太郎

「墨塗(すみぬり)」
 大名:大藏基誠、太郎冠者:野島伸仁、女:善竹大二郎

素囃子「羯鼓(かっこ)」
 大鼓:大倉慶乃助、小鼓:鳥山直也、笛:小野寺竜一

「鶏聟(にわとりむこ)」
 聟:善竹富太郎、舅:善竹十郎、太郎冠者:大藏教義、教え手:山本則秀

 国立能楽堂も8割がた人が入って、富太郎さんの会も人が増えてきた感じです。それも観客層に若い男性が多い。他は女性客が圧倒的に多かったり、年配の人が多かったりするんだけれど、若い人が目につきました。
 いつものように、ユーモアを交えて、富太郎さんの分かりやすい解説。
 「墨塗」では、最後に「どえらいことになります」って、繰り返して(笑)。
 「鶏聟」では、来年は酉年なので、あちこちで演じられることが多くなると思いますが、先取りということで、「“トリ”年だけに先“ドリ”」って、言うと思ったら、やっぱり言った(笑)。

「墨塗」
 訴訟を済ませて帰国する大名が在京中に馴染んだ女のもとに暇乞いに行きますが、女は別れを悲しんで泣きます。ところが、本当は茶碗の水で目を濡らしているのを太郎冠者が見つけ、大名に知らせますが、大名は信じません。そこで、太郎冠者がコッソリ水と墨を取り替えると、女の顔が真っ黒になったので、大名も女の本心を知り、恥をかかせようと、形見だと言って鏡を渡します。墨のついた自分の顔をみて怒った女は、大名や太郎冠者にも墨を塗りつけます。

 大名の基誠さんは背が高くて、わりとイイ男。女役はポッチャリ気味の大二郎さんで都の妾さんにしては、生活感ありあり(笑)。でも、そんな二人が意外や意外、したたかな女にすっかり騙される大名が太郎冠者の機転で仕返しして大笑いすると、最後は怒った女に墨付けられての大騒ぎ。富太郎さん曰く「どえらいことになります」で、やっぱり大笑いでした(*^∇^*)。

「鶏聟」
 聟入りの作法を良く知らない聟は、お世話になっている人のもとに聞きに行きますが、今流行の聟入りは鶏スタイルだと嘘を教えられてしまいます。そうとは知らない聟は舅の元に出かけて、いきなり鶏の真似をはじめます。それを見た舅も太郎冠者もあっけにとられますが、誰かに騙されたのだと察した舅は、聟に恥をかかせまいと、自分も同じように鶏の真似をして、めでたく舞い納めます。

 なんで、教え手がからかって嘘を教えたのかなと、今まで思ってましたが、物知らずな聟さんが教え手が時々奥さんの実家に行くのを「度々聟入りをしている」と人聞きの悪いことを言ったのが気に障ったんですね。生真面目そうな山本則秀さんの教え手がいかにもそういう雰囲気を出してました。
 富太郎さんのどこかノホホ〜ンとした雰囲気の聟さんと十郎さんの大らかな舅がピッタリ合って、鶏の鳴き真似や蹴り合う真似が可笑しくて最後はホッコリ(*^^*)
 鶏のトサカの代わりは真っ赤な洞烏帽子でした。
2016年12月15日 (木) 第76回野村狂言座
会場:宝生能楽堂 18:30開演

解説:野村萬斎

小舞「蝉」 野村裕基    地謡:飯田豪、中村修一、野村萬斎、内藤連、岡聡史

「二千石(じせんせき)」
 主:野村万作、太郎冠者:高野和憲          後見:飯田豪

「鏡男(かがみおとこ)」
 夫:石田幸雄、鏡売り:岡聡史、妻:竹山悠樹     後見:内藤連

「鉢叩(はちたたき)」
 鉢叩僧:野村萬斎、深田博治、高野和憲、月崎晴夫
 茶筅売:内藤連、中村修一、飯田豪、野村裕基
 瓢の神:野村万作
     後見:岡聡史、野村太一郎
        大鼓:原岡一之、小鼓:古賀裕己、太鼓:大川典良

 万之介さんの七回忌追善ということで、万之介さんにちなんだ曲を選ばれたそうです。
 「鏡男」は万之介さんの得意な曲だったそうです。いわゆる「遠い曲」で滅多にやらない曲だそうですが、万之介さんがやると面白いので、そのお陰で、萬斎さんの狂言の会でもよくやってもらったそうです。
  以前「新宿狂言」の時、開演30分前になって、万之介さんから急病で来られない、駅で介抱されている。との連絡があり、急遽萬斎さんが代役をすることになったものの、むか〜し1回やったきりなので、30分で必死に台詞を覚えたそうです。

小舞「蝉」
 舞狂言「蝉」の終曲部で舞われる舞。蝉の亡霊が、烏に殺された自らの最期の有様や地獄の責め苦の様を語り舞う場面。「つくつくほうし」と「法師」を掛けたしゃれなどに狂言らしいユーモアがあります。
 裕基くん、萬斎さんが倅のことを「背丈ばかり大きくなって」と言ってましたが、確かに随分背が高くなって、お父さんをとっくに越してます。顔が小さいのも現代的。
 声はすっかり落ち着いて低い声になりました。動きの多い小舞で、お父さんの萬斎さんもお得意なのか、よく舞いますが、裕基くん、飛び返りも決まって、なかなかカッコ良く、初々しかったです。

「二千石」
 無断で外出していた太郎冠者が帰宅したと聞いて、主人は太郎冠者の私宅へ叱りに出かけますが、太郎冠者が都見物に行ってきたと言い訳して謝るので許し、都の様子を訪ねます。太郎冠者は、都で流行る謡を覚えてきたと言って謡いだしますが、たちまち主人は不機嫌になり、その謡は、主人の祖先が源義家の奥州征伐に従軍した際に酒宴で謡ったもので、程なく敵を滅ぼすことが出来たため、これも謡のおかげだと恩恵を賜ったことから、大事に封印してきた謡なのだと由来を語ります。主人は、お前が大事な謡を勝手に持ち出して都で流行らせたのだろうと、太郎冠者に太刀を振り上げますが、その姿を見た太郎冠者は、その手元が大殿様(先代)に似ていると言って泣くので、主人も思わず落涙し、太郎冠者を許して、子が親に似るのはめでたいと、共に笑います。

 主人の語りが聴きどころですが、万作さん、「よみうり大手町狂言座」の時より、声の調子もすっかり良くなられていました。万作さんが出られると舞台が締まります。
 しかし、太郎冠者に切りつけようとするほど怒っていたのに、手が父親に似ていると泣かれただけで許してしまうとは、なんとも単純な主人で、そこが狂言らしく、最後は笑ってめでたしめでたし(笑)。太郎冠者も主人のご機嫌の取り方をよく心得ているようです。

「鏡男」
 訴訟のために長い間在京していた越後の国松の山家(やまが)の男が、やっと帰国できることになり、妻への土産を買いに行きます。鏡売りの男から、鏡は自分の姿をありありと映すことのできるもので、特に女にとって重宝な道具だと教えられた男は、妻を喜ばせるために、大金を払って買って帰ります。久々に帰宅した夫に妻は大喜び。土産に美しい鏡までもらって上機嫌になりますが、生まれて初めて鏡を見た妻は、鏡の中に見知らぬ女がいると騒ぎ、夫が都の女を連れてきたと言って怒り出します。夫が説明しようと妻に近づくと、女に近寄るのかとますます嫉妬して怒り、夫が、他の者にやろうと鏡を取り上げると、妻は、女をどこに連れて行くのだと怒りながら追って行きます。

 鏡に映る自分の姿を他人と間違える話は、能「松山鏡」や落語の「松山鏡」にもあります。
 萬斎さん曰く、「ちょっと、くたびれてきた人がやると似合う」という夫役。万之介さんが得意としたというのも、なるほど。今回はそれを石田さんがやりましたけれど、うん、くたびれ具合が丁度良いかも(笑)。
 夫にしてみれば、やっと国に帰れる喜び、都の土産で妻の喜ぶ顔も見たかったのでしょうが、長く待たされていた妻は都で女が出来てやしないかという疑心暗鬼もあったんでしょうね。見たこともない鏡に映る自分の顔を他の女がいると勘違いして大騒ぎ。竹山さんの妻が強くて、妻に頭が上がらなそうな石田さんの夫だけれど、夫の優しさ、やきもち妬きの妻、いつもは仲が良い夫婦なのだろうなと思われて可笑しくもホッコリしました。

 休憩の後、素囃子がなかなか始まらないと思ったら、都合により、素囃子は中止というアナウンスがありました。後日、お詫びのハガキが届きましたが、どうやら笛方との連絡の手違いがあったようで、笛方が来てなかったようです。その後の「鉢叩」もお囃子は大鼓、小鼓、太鼓の3方だけでした。

「鉢叩」
 都に住む鉢叩僧たちが、北野天満宮に参詣します。末社の瓢(ふくべ)の神は、鉢叩の氏神なので、その前で瓢箪や鐘鼓(しょうこ)を叩きながら念仏を唱えていると、瓢の神が姿を現し、人々に富貴栄華を約束するのでした。

 能『輪蔵(りんぞう)』の替間として演じられる演目ですが、鉢叩とは、空也上人の流れをくむ、鉢や瓢箪を叩きながら托鉢していた半僧半俗の念仏聖のことだそうです。茶筅を売り歩いたともいい、茶筅を挿した竹を叩く者がいるのは、そのためだそうです。
 鉢や瓢箪、茶筅を叩いて段々テンポが速まる念仏踊りはリズミカルで面白く、万作さんの瓢の神も念仏踊りにつられて出てきちゃった感じで、めでたさ格別です(^^)

 万之介さんの初舞台は「靭猿」ではなくて、この「鉢叩」の瓢の神だったそうです。

 太一郎さんが後見で出ていました。
2016年12月8日 (木) 第2回よみうり大手町狂言座
会場:よみうり大手町ホール 19:00開演

お話:ロバート・キャンベル

「鍋八撥(なべやつばち)」
鍋売り:野村万作、羯鼓売り:中村修一、目代:深田博治
     笛:松田弘之
       後見:内藤連、飯田豪

「悪太郎(あくたろう)」
 悪太郎:野村萬斎、伯父:石田幸雄、僧:深田博治    後見:岡聡史

 先に「悪太郎」の配役の僧が万作さんから深田さんに変更になる旨放送がありました。先日の「国立能楽堂12月定例公演」の時、病気療養中とのことで、無理をしないよう大事をとったものと思われます。帰りに会場にいた年配の男性が「万作さんは、肺炎になりかかった」と言っているのを聞きました。まあ、でも舞台に出られるようになって良かった。
 ロバート・キャンベルさんが、このお話を受けることになったきっかけは、今年春の園遊会に招かれた時、万作さんに「キャンベルくん」と声をかけられ、「暮れに公演があるので、是非来てください」と言われたそうで、その時は、まさかこういうことになろうとは思っていなかったそうです。万作さんとの出会いは2011年のNHKワールドテレビでの対談とのこと。
 「今日に二つの演目の共通点は、主人公が劇中で寝てしまい、目覚めた時に人生の転機がやってくるというもの。西洋のお芝居ではあまり寝るシーンはありませんが、日本の中世のお芝居ではなぜか寝るシーンが多いですね」と、確かに(^^)

 「鍋八撥」
 所の目代が新しく市を立てるのに際し、一番最初の店についた者を代表と認め免税するという高札を出します。それを見て夜明け前に一番乗りした羯鼓売りが、一寝入りしていると、一足遅れて浅鍋売りがやってきます。先を越された浅鍋売りは、一番乗りのふりをして羯鼓売りの傍らに寝入ります。目を覚ました羯鼓売りは驚き、二人は「自分こそが一番」と言い争いになります。そこへ目代が仲裁に入りますが、双方とも、自分が先に着いたと主張し、羯鼓売りは、羯鼓は稚児や若衆もてあそびものになる上品なもので「和漢朗詠集」にも詠まれていると言い、浅鍋売りも負けじと、鍋で調理したものを食べるからこそ羯鼓も打てるのだと言い返し、古歌を引いて、自分の方が一の店にふさわしいと主張します。そこで目代は、何か勝負して決着をつけるように命じます。まず羯鼓売りが棒を巧みに振ってみせたので、浅鍋売りも鍋を振りますが、落としそうになってしまいます。次に羯鼓売りが羯鼓を打ちながら舞うと、浅鍋売りも鍋を腹に括りつけて舞いますが、貸してもらった撥で鍋をわりそうになったため、杉の葉に持ち替えて、二人で相舞にします。最後に羯鼓売りが体を水車のように回転させながら幕入りするのを浅鍋売りも真似ようとしますが上手くいかず、倒れて腹ばいになり、鍋が割れてしまいます。浅鍋売りは割れた鍋を見て、数が多くなってめでたいと言って喜びます。

 最後に、鍋が割れなかった場合は、丈夫な鍋だから家で大事にしようという趣旨の台詞に変えられるそうですが、今までに割れなかったのは観たことがありません。
 万作さん、まだ少々声は辛そうでした。かなり動きのある演目でもあるので、大事をとって、後の演目には出ないことにしたものと思われます。
 お相手をつとめる中村さんの羯鼓売りは棒ふりも最後の水車(横転の連続)もカッコ良かったです。
 ちょっと、ズルする浅鍋売りの万作さんと羯鼓売りの中村さんのやりとり、万作さんの表情や動きの一つ一つがなんとも可愛らしい。祝言ものの演目なので、最後は鍋が割れても「数が多なってめでたい」という万作さんの満面の笑顔にホッコリしました。

「悪太郎」
 乱暴者の悪太郎は、酒を飲むとことを非難する伯父を脅してやろうと、長刀を携えて出かけ、そこでもさんざん酒を飲んで、よい機嫌になると、帰る道すがら寝込んでしまいます。後をつけてきた伯父は、道端に寝ている悪太郎を見つけて僧形にし、「今後は南無阿弥陀仏と名付ける」と言い残して帰ります。さて、目を覚ました悪太郎は伯父の言葉を仏のお告げだと思い、仏道修行することを決心します。そこへ出家が「南無阿弥陀仏」と唱えながらやって来たので、悪太郎は自分のことかと思って返事をします。出家に南無阿弥陀仏の由来を聞かされ、悪太郎は、これからは一心に弥陀を頼もうと誓います。

 大髭を蓄えて酒癖が悪く乱暴者の悪太郎。伯父を脅してさらに酒を飲もうなんて本当に困ったものです。長刀を振るう悪太郎に「危ない危ない」と迷惑そうにしながらしかたなくお酒を振る舞う伯父の石田さんはやっぱり磐石の安定した演技。
 後半に万作さんの代役で出て来る僧役の深田さんも萬斎さんとは息の合った演技。念仏を唱えると、なぜか返事をして寄ってくる変な奴に面くらう僧と悪太郎のやりとりは、念仏踊りに至るまで、いつ見ても大笑いです〜(^∇^)
 最初の傍若無人さから一転して仏道に入る決心をする。まさに目覚めた時に人生の転機を迎える悪太郎。中世の人々の宗教観も垣間見えます。
2016年12月7日 (水) 国立能楽堂12月定例公演
会場:国立能楽堂 13:00開演

「箕被(みかずき)」
 男:石田幸雄、妻:野村萬斎

『遊行柳』
 シテ(老人・老柳の精):友枝昭世
 ワキ(遊行上人):宝生欣也
 ワキツレ(従僧):大日方寛、御厨誠吾
 アイ(所の者):野村萬斎
   笛:藤田六郎兵衛、小鼓:曽和正博、大鼓:柿原崇志、太鼓:小寺佐七
     後見:中村邦生、友枝雄人
        地謡:大島輝久、金子敬一郎、狩野了一、友枝真也
            粟谷明生、粟谷能夫、香川靖嗣、長島茂

「箕被」
 連歌好きの男が、春夏秋冬にこと寄せた発句がよくできたので、その披露に連歌の会を催したいと言って、妻に用意をするよう言います。生活が貧窮しているのも顧みず「実家から借財をしてでも接待の料理を調えてくれ」と言いだす夫に愛想をつかした妻は離縁を申し出ます。夫は暇のしるしに妻の使い慣れた箕を渡しますが、それを被って出てゆく妻の後ろ姿に「みかづきの出づるも惜しき名残かな」と詠みかけます。すると妻が「秋の形見に暮れてゆく空」と巧みに脇句をつけるのに驚き、夫は、これからは夫婦で連歌を詠みあって仲良く暮らそうと、呼び戻し、めでたく夫婦固めの盃を交わします。

 中世では離縁する時、暇のしるしをもらわなければ、これなしで再縁すると罪にとわれたそうです。何もないから塵を結んだものでもよいとか、よく狂言の台詞に出てきますけど、ここでは箕(み=穀類を選り分ける籠ざる)を渡し、妻がそれを被って出て行こうとします。
 夫が妻に連歌にうつつを抜かすことの言い訳に持ち出すのが中国の前漢の時、書を読み歌を歌うことで武帝に取り立てられて立身出世した朱買臣の故事を持ち出したりしますが、連歌の会を催すにはお金がかかり、夫の道楽のために毎日の食べ物にも困るような生活では妻が怒るのも無理はなく、まして、以前にも実家の援助を受けたのをいいことに、また実家から借りればいいと臆面もなく言うのには、妻が愛想をつかすのも当然。妻が箕を被って出て行く後ろ姿に詠みかけた句に返歌する妻の歌の才能気付いた夫が復縁を求めてめでたし、めでたし。これからは、二人で歌を詠みあって仲良く暮らそうということです。最後に復縁した時の夫の謡は能『芦刈』(離れかけた夫婦が歌の力で復縁する物語)のアレンジだそうです。
 スッとして品良い妻の萬斎さん。元々の家柄も良く、教養もありそうなので、それでも良いのかもしれないけれど、配役が反対で石田さんが妻役だったら、もっと生活に疲れた感が出るところなんだけど、最後は夫婦和合でほっこりするところ、意外とあっさりした感じでした。

『遊行柳』
 諸国行脚の遊行上人の一行が、奥州白河の関を越えると、一人の老人が現れ、先代の遊行上人が通った古道を教えて、苔むした枯木のもとに案内します。老人は昔、西行法師が奥州行脚の途中、ここに休んで、有名な「道のべに清水流るる柳影、しばしとてこそ立ちどまりつれ」の一首を詠じた名木・朽木の柳であると言って、上人から十念を授かると消えてしまいます。
 所の者が朽木の謂れを語り、上人が念仏を唱えていると、朽木の中から声が響き、烏帽子・狩衣の白髪の老人と変じた柳の精が現れ、上人に授かった十念のおかげで成仏できる喜びを述べ、古今東西の柳にまつわる故事を語って報謝の舞を舞います。やがて、秋風に吹かれて柳の葉はちりぢりに散りつくし、夜が明けて、元の枯木が残るばかりでした。

 万作さんが病気療養中とのことで、アイは萬斎さんが代役で出演されました。能の風情を壊さず、品格のあるアイでした。
 ワキの欣也さんも美しいハコビで、シテとの掛け合い、息が合っててやはり良い感じ。
 シテの友枝さんは、前シテの老人では、老衰感があって、弱々しいのに佇まいは美しく、後シテの柳の精では、烏帽子・狩衣・大口姿の白髪の老人が威厳のある雰囲気で朽木の作り物の中から登場。舞の名手の友枝さんらしく柳の精である後シテに生々しさはなく、役目を終えて枯れゆく柳の葉がはらはらと散りゆくさまを表すように軽やかで美しく、いつまでも観ていたい思いでした。
2016年12月1日 (木) 萬斎インセルリアンタワー16
会場:東急セルリアンタワー能楽堂 19:00開演

解説:野村萬斎

「鬼瓦」
 大名:石田幸雄、太郎冠者:月崎晴夫     後見:中村修一

「三人片輪」
 博奕打:野村萬斎
 有徳人:飯田豪
 博奕打:高野和憲
 博奕打:深田博治
     後見:内藤連

 今回の萬斎さんの解説は、アブない話は出てきませんでした(笑)。
 今年1年の活動や来年の予定などの話がありました。まあ、今年の活動については、映画「スキャナー」や「シン・ゴジラ」の話はもちろんありましたが、来年公開の「花戦さ」が「スキャナー」のキャンペーン中に入って来て、えらいことになってたそうです。5月は「花戦さ」の撮影で来年6月3日公開だそうです。 6月は「マクベス」の公演、8月後半には狂言のコスタリカ公演があったそうです。
 9月には、別の映画を撮る話があったそうですが、お金が集まらずに頓挫したとか、何の映画だったのか、気になる所です。「のぼうの城」もスケールが大きすぎて、お金が足らず、脚本ができてから撮影開始まで8年もかかったといいますからね。
 ところで、来年の予定では、2月、3月に何かあるらしいです。まだ発表はできないんだそうです。これも気になりますね〜。

「鬼瓦」
 長らく在京していた大名が、無事訴訟も叶い帰国することになります。これも日頃信仰している因幡薬師のおかげと、お礼と暇乞いのために太郎冠者を連れて参詣に行き、お参りを済ませてお堂の様子を見て回るうちに、ふと見上げた屋根の鬼瓦に目が留まり、大名は急に泣き出します。鬼瓦を見て国に残した妻を思い出したと言うのです。太郎冠者が間もなく帰国すればお会いになれますと言うと、大名も気を取り直して二人で大笑いします。

 石田さんの大らかな大名と、月崎さんの気の利く太郎冠者のコンビです。
 鬼瓦を見て妻の顔を思い出すというのも失礼といえば失礼な話ですが、滑稽でつい笑っちゃいます。それでも離れていた妻を懐かしんで泣き出すなんて可愛い大名で、最後はほっこりしますね。

「三人片輪」
 体の不自由な者を召し抱えようという有徳人のところへ、無一文になった博奕打ち三人がやってきて、それぞれが盲人、足の不自由な人、唖者のふりをして、まんまと召し抱えられることに成功します。主人がそれぞれに仕事を命じて外出すると、三人はいつもの姿に戻って酒蔵に入り、謡い舞いの賑やかな酒盛りが始まります。そこへ主人が帰ってくると、慌てた三人は酔いが回って、自分が何のふりをしていたか忘れてしまい、取り違えて有徳人に見破られてしまいます。

 パンフレットに「上演中、現在不適切とされている語句が出てまいりますが、決してそれ以外の意図はございません。古典という事でご了承頂ければと存じます。」という断り書きがありました。
 障害者に対する差別用語が出て来るので、しばらく演じられなかったこともあったようですが、古典狂言の台詞を変えるのもおかしなことだし、内容は、博奕で、すっからかんになった男たちが障害者のふりをして、楽に食いぶちを得ようとしたけれど、バレて大失敗という話です。
 あっけらかんと、カラッと演じているので、飲めや歌えの宴会になって、最後は取り違えて大騒ぎになってしまうところが大笑いです。当時も生きることにしたたかな人たち(悪知恵を働かせる)が欲望には勝てず、愚かしく、でも、どこか間が抜けてて憎めない。
 それでも、謡い舞いになると、ちゃんとそれが見せ所になってるんですよ。
 高野さんが「風車」深田さんが「兎」萬斎さんが「景清」をそれぞれ舞われました。