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能楽鑑賞日記

2017年8月25日(金) 第四回延年之會
会場:国立能楽堂 18:30開演

「佐渡狐(さどぎつね)」
 佐渡の百姓:小笠原匡、越後の百姓:能村晶人、奏者:野村万蔵

「奈須与市語(なすのよいちのかたり)」
 語り:小笠原弘晃

「武悪(ぶあく)」
 武悪:小笠原匡、主人:野村萬、太郎冠者:野村万蔵

 萬さんのお弟子さんの小笠原匡さんが主宰する会で、今回は息子さんの弘晃さん(16歳)の「奈須与市語」の披きです。
 弘晃さんは、映画『北のカナリアたち』に信人役で出演していたそうで、プログラムに吉永小百合さんからの寄稿が載っていました。

「佐渡狐」
 年貢を納めに上京する越後の百姓と佐渡の百姓が道連れになります。越後の百姓が「佐渡には狐がいないであろう」と言うと、佐渡の百姓は「狐はたくさんいる」と言い張り、小刀を賭けることになり、奏者(取次役人)に判定してもらうことにします。実は狐はいないので、狐を知らない佐渡の百姓は都に着くと、先に年貢を納めて、奏者に賄賂を贈り、狐の姿形を教えてもらいます。越後の百姓も年貢を納め終わって、賭けの判定となりますが、佐渡に狐はいると判定され、納得のいかない越後の百姓は、狐の姿形について佐渡の百姓を問い詰めます。佐渡の百姓は奏者の身振りなどに助けられて答えることが出来、小刀を得ますが、帰途、奏者とグルであることに気付いた越後の百姓は、佐渡の百姓に狐の鳴き声を尋ねます。佐渡の百姓が苦し紛れに鶏の鳴き声を答えたので、越後の百姓は小刀を奪い返して去って行きます。

 小笠原さんの佐渡の百姓が、万蔵さんの奏者に賄賂を渡すところ、断りながら背を向ける奏者の袖の下から賄賂をそっと渡す佐渡の百姓、奏者思わずニンマリ(笑)。まさに「袖の下」の語源で笑っちゃいます。晶人さんの越後の百姓に問い詰められて答えに詰まる佐渡の百姓に、コッソリ身振り手振りで助け舟を出す奏者と、途中から不審な動きに気付いたような越後の百姓が、見えないように阻止するドタバタぶりも、定番だけどやっぱり可笑しい。

「奈須与市語」
 能『屋島』の中の小書付きのアイ語りで、「平家物語」の「扇の的」の逸話を、義経・後藤兵衛実基・与市の三者を仕方を交えて語り分ける、難しい語り。狂言師の節目として重要な披き(初演)です。

 弘晃さん、とてもしっかりして迫力のある語りと動きで立派な披きでした。

「武悪」
 主人は家来の武悪の不奉公を怒り、同じく召し使う太郎冠者に武悪を成敗するよう命じます。太郎冠者は主人の太刀を持って武悪の家を訪れ、武芸に秀でている武悪を言葉巧みに外へ連れ出し、主人へ魚を進上するようにすすめ、武悪が生け簀の中で魚を獲るところを騙し討ちにしようとします。ところが、気付いた武悪が嘆き悲しみながら覚悟を決める様子を見て、どうしても討つことが出来ません。遠国へ出奔することを条件に見逃し、主人には見事討ったと偽りの復命をします。最期に覚悟を決めた様子を聞いた主人は、冥福を祈ろうと太郎冠者を連れて東山へ向かいますが、出奔前に清水の観世音にお礼参りに行こうとする武悪と鳥辺野あたりで鉢合わせてしまいます。武悪は慌てて逃げ、不審を抱く主人に太郎冠者が様子を確かめて来ると言って、武悪のもとに行き、幽霊になって出て来るよう入れ知恵をします。幽霊の姿になって出直した武悪は主人と対面し、そして、冥途で主人の父親に会ったといい、その注文だと言って太刀、小刀、扇などを受け取り、さらに冥途に広い屋敷があるからお供をしようと、主人を脅して追って行きます。

 前半の萬さんの主人が怖くてすごく緊張感がありました。中盤の太郎冠者の万蔵さんと武悪の小笠原さんのやり取りも、騙し討ちをしようとしても幼い時から一緒に仕えていた武悪をどうしても討てない太郎冠者と武悪の関係がよくわかり、後半はもう、幽霊に化けた武悪とそれに翻弄される主人に大笑いでした。萬さん、最初の怖い主人から、幽霊にビビリながら父親の様子に涙する主人に、その落差が面白い。幽霊に化けて主人を脅すことを楽しんじゃってるような武悪と、三人三様に存在感のある演技でした。
2017年8月24日(木) 第79回野村狂言座
会場:宝生能楽堂 18:30開演

解説:野村萬斎

「口真似(くちまね)」
 太郎冠者:岡聡志、主:内藤連、何某:中村修一     後見:深田博治

小舞「鵜之舞」  飯田豪
  「鵜飼」   野村太一郎
         地謡:竹山悠樹、石田幸雄、深田博治、月崎晴夫

「月見座頭(つきみざとう)」
 座頭:野村万作、上京の男:野村萬斎      後見:中村修一

「六地蔵(ろくじぞう)」
 すっぱ:高野和憲
 田舎者:石田幸雄
 すっぱ仲間:月崎晴夫、竹山悠樹、深田博治         後見:飯田豪

 今回は若手による「口真似」、中堅の「六地蔵」、そして万作さんと親子での「月見座頭」の3曲。小舞は“鵜づくし”で「鵜之舞」と「鵜飼」です。

「口真似」
 良い酒をもらったので、一緒におもしろく飲んでくれる人を探して来いと主人から命じられた太郎冠者は、顔見知りの何某のもとを訪れます。主人とは近づきでないからとためらう何某を太郎冠者は強引に連れ帰るのですが、実はこの何某は、酒癖が悪いので有名な男だったので、それに気づいた主人は太郎冠者を叱りつけ、自分が適当にあしらって帰すから、以後は余計な振る舞いはせず、全て自分の言う通りにするよう言い含めます。しかし、太郎冠者が主人の言う事を一字一句まねて何某にくり返すので、話がだんだん混線してきます。怒った主人は太郎冠者を倒し、何某に挨拶してひっこむと、起き上がった太郎冠者も何某を引き倒し、主人を真似て、倒れている何某に恭しく挨拶して引っ込みます。

 いつもちょっと硬いイメージの岡さんが、柔らかい笑顔で楽しそうにやっていたのが印象的でした。お酒の相手なら自分がいるのに、他の人を連れてこいという主人。せっかく自分なりに考えて連れてきた相手が悪いと叱られるし、律儀に主人の言いつけを守るというより、すねて主人を困らせることを楽しんでいるようにも見えました。
 割を食った何某さんはちょっと可哀相でもありますが、酒癖が悪いことで有名とは、さて、本当はどんな困ったちゃんなんでしょうね。

小舞「鵜之舞」「鵜飼」
 「鵜之舞」は能『江野島』のアイの鵜の精が、江の島の弁財天の由来を語った後に謡い舞う部分を小舞に仕立てたもので、鵜の威徳を謡っているそうです。鵜は神様の仕いらしいです。
 「鵜飼」は能『鵜飼』の「鵜之段」と呼ばれる部分の舞で、禁漁を犯したため殺された鵜使いの亡霊が、ワキ僧に鵜飼の様子を見せる場面です。
 二人とも声がよく、飯田さんも謡の声が良いなあと思いましたが、太一郎さんは声が太くて力強い感じ、二人ともキレの良い舞で素敵でした。

「月見座頭」
 中秋の名月に座頭が、月を見ることはできなくても、虫の音を楽しもうと河原へやってきます。美しい虫の音に興じているところへ、上京の男が月見にやって来て、座頭に声をかけます。二人は和歌を詠み合ってすっかり仲良くなり、酒を酌み交わします。謡ったり舞ったりして楽しく時を過ごした後、気持ちよく別れを告げるのですが、上京の男はふと気が変わり、立ち戻って座頭に行き当たり、声を荒げて突き倒して去って行きます。座頭は「今の奴は最前の人とはひっちがえ情けもない奴でござる」とつぶやき、盲目の身の哀れさ、人の世の切なさを嘆き、大きなクシャミをして帰っていきます。

 元々は江戸時代末期に鷺流で作られたもので、鷺流が滅び、明治以降に大蔵流が現行曲に加えたものだそうです。和泉流では萬斎さんのお祖父さんの六世万蔵さんが鷺流の台本を土台に改作試演し、その後万作さんが改訂を加えながら上演しているとのこと。特に最後の謡は万作さんが考えられたものだそうです。そう言えば、最後に座頭が一人で謡う場面は大蔵流では無かったような気がします。
 各流儀、各家でも解釈が少しずつ異なり、演じ方や台詞にも違いがあるそうで、同じ大蔵流でも山本家では盲人でも座頭より位の高い勾当なのでプライドが高く、茂山家では、もっと庶民的な感じの座頭だそうです。
 万作さんの座頭が仲秋の名月に河原に出てきて虫の音を聴く、満月と夜風と草原に虫の音、すべてが今そこにあるように感じられる万作さんの演技に引きつけられます。萬斎さんの上京の男と意気投合して謡い舞いの酒宴も和やかで楽しそう、二人で謡う謡も素晴らしかったです。それ故に、萬斎さんの上京の男の急な変心が不気味。人間の心の奥に潜む二面性を目の前に提示して見せる。「最前の人とは違い」と言いながら、座頭は別人のように変心した上京の男に気付いていたんじゃないのかな。嘆きながらも、杖で川の流れを調べて帰り道を確認する座頭の知恵。これまでも、何回も理不尽な目に遭ってきたであろう座頭がすぐに日常を取り戻し、最後に大きなクシャミをする姿にペーソスとおかしみが感じられ、また逞しく明日も生きて行くであろう姿が目に焼き付きました。

「六地蔵」
 新しく建立した御堂に安置する六地蔵を買い求めようと、田舎者が都へやって来ますが、仏師を知りません。「仏買おう」と大声で呼びかけながら洛中を歩き回る田舎者にすっぱ(詐欺師)が声をかけ、自分こそ安阿弥(快慶)の流れを汲んだ本物の仏師だと名乗り、明日までに六体の地蔵を作ってやろうと約束します。田舎者と別れたすっぱは、さっそく3人の仲間を呼び出し、地蔵に化けて田舎者から代金をだまし取ろうと計画します。翌日、約束の場所に田舎者が地蔵を受け取りにやってくると、因幡堂の後堂と鐘楼堂(しゅろうどう)に3体ずつ置いてあるとのこと、見れば、どこか印相がおかしいので、仏師に手直しを頼んでもなかなか思い通りの印相になりません。何度もやり直すうちに、とうとう偽地蔵であることがバレて、すっぱ達は田舎者に追われて逃げて行きます。

 何回観ても面白い、ドリフのコントみたいな演目。萬斎さんのすっぱは何回か観たことがありますが、高野さんでは今回が初めてです。高野さんのすっぱもなかなかのハマリ役で、何回も行き来するうちに慌ててハチャメチャになる印相には大笑い。安定の中堅の皆さんも楽しんで演じているみたいで、最後は心おきなく笑って〆になりました。
2017年8月6日(日) 第十八回よこはま「万作・萬斎の会」
会場:横浜能楽堂 14:00開演

「岡太夫(おかだゆう)」
 聟:野村萬斎、舅:石田幸雄、太郎冠者:月崎晴夫、妻:高野和憲
                            後見:内藤連

「鐘の音(かねのね)」
 太郎冠者:野村万作、主:深田博治           後見:飯田豪

狂言芸話(十八) 野村万作

素囃子「男舞」
 大鼓:佃良太郎、小鼓:田邊恭資、笛:栗林祐輔

「蝉(せみ)」
 蝉の亡魂:野村萬斎、旅僧:野村太一郎、所の者:竹山悠樹
   地謡:飯田豪、破石晋照、中村修一、内藤連、岡聡史
      後見:高野和憲

「岡太夫」
 婿入りのために舅宅を訪れた聟が舅と盃事を済ますと、蕨餅を振る舞われます。蕨餅を初めて食べた聟は柔らかい食感と美味しさに感動し、全部食べてしまいます。舅は娘のおごうに作らせるよう助言しますが、聟は蕨餅の名を覚えることができません。そこで舅は岡太夫という異称とともに由緒を教え、娘が詠む朗詠(和漢朗詠集)の中にも出て来るものであると言い添えます。帰宅した聟は妻のおごうに蕨餅を作ってもらおうとしますが、名を忘れたので、詩を次々とあげさせます。しかし、目指す名が出てこず苛立った男が手を挙げると、妻が「紫塵のものうき蕨人手をにぎる」と吟じたのでやっと思い出します。

 婿入りものは多くあり、そこで聟が失敗する話も何曲かありますが、これは物覚えの悪い聟さんの話。萬斎聟さんの物覚えの悪さがひどすぎて笑っちゃいますが、それに比べて教養のある出来過ぎた奥さん。怒りもせずに最後はほのぼのと終わります。

「鐘の音」
 元服する息子に熨斗付け(のしつけ)の太刀を贈ることにした主人は、鎌倉でカネノネ(黄金の価格)を調べてくるよう太郎冠者に言いつけます。それを鐘の音と思い込んだ太郎冠者は、寿福寺、円覚寺、極楽寺、建長寺と回り、鐘を撞いて音色を確認します。帰宅してカネノネを報告すると、主人は怒りだし、太郎冠者を追い出してしまいます。太郎冠者は主人の機嫌を直そうと、鐘の音を聞いて来た様子を謡いながら舞いますが、結局主人に叱られてしまいます。

 万作さんの太郎冠者で演じられることが多いような気がします。お寺の鐘の音を聞いて回る様子は太郎冠者の一人芝居で、鐘の音の違いをそれぞれ声で表現するところが見どころ聞きどころ。万作さんの鐘の音の擬音、いいお声で聞き入っちゃいます。割れ鐘のガチャガチャガチャの表現と仕草も笑っちゃいます。
 追い出された太郎冠者が言われてみればと、自ら反省して、ご機嫌を取り持とうと謡い舞いますが、結局叱られちゃうのが切ないですね。

万作芸話(十八)
 他では聞けない万作さんのお話はこの会の楽しみの一つです。
 最初、「鐘の音」の太郎冠者の話で、そそっかしい太郎冠者が出てきますが、主人の方が「コガネノネ」と言えばいいところを「カネノネ」と言うからいけないと仰ってました。確かにそうですよ、どっちもどっち。
 海外公演でも演じた「川上」については、目の見えなかった夫が10年ぶりに妻を見て「女どもか?」と言う台詞、普通の演劇ではキョロキョロ見まわしたりするところでしょうが、狂言では、あまり大げさでなく、微妙な間の取り方などで表現する(実演を交えて)。そこが狂言の良い所だと思うと、仰ってました。また、昔は「川上」の悲劇性が素晴らしいと思っていたけれど、今は夫婦のつながりが宗教に勝ったと、最後に二人が退場するところは、夫が妻に手を引かれて行く(ここも表情を実演)のではなく、二人並んで歩いて行くのが良いと思って、今はそうしているとのこと。
 その前に夫が「ああ、このようなことなら最前杖は捨てまいものを」と嘆く場面があって、そこで笑いが起こったことがありますが、その会の批評で「笑うところではない」と観客を批判するものがありました。私は笑っても良いと思っています。言葉通りに受け取れば笑うのが自然のこと、見巧者の視点がいつも正しいとは思いません。海外公演でも字幕が出るので笑いが起こります。字幕は現代語だから。ドナルド・キーンさんが「古典が難しければ、現代語に訳したものを読めばよい」と仰っていますが、そういう新しい見方を受け入れていくのも必要だと思うと仰ってました。
 最近、萬斎さんがやった「子午線の祀り」について、万作さんが以前に義経をやったこともあり、思い入れのある作品のようです。群読は古典のままの言葉を大勢が同時に発することで、言葉の響きが強く伝わる手法で、この劇は現代文と「平家物語」の古典のままの部分があり、色々な分野の役者が集って演技を競い合って作って行く舞台です。
 朝日新聞の劇評で「萬斎の知盛は狂言の土台があるので際立って素晴らしかった」というようなことが書かれていましたが、演出の方はあまり良くなかったのかなwww評は群読が分かりづらいということを言わんとしたもので、「平家物語」の原文と現代語訳が併記されていましたが、確かに現代語の方が分かりやすい。私は能狂言の格式、格調の高さや厳かさこそ素晴らしいと思っていますが、それが逆に分かりにくさにもなっています。でも、落語のように現代語を織り交ぜて演ずることもできませんし、それがジレンマでもあり、伝統が抱える問題でもありますと仰っていました。
 1週間後に名古屋の公演で、喋らなきゃならないことになっていて、先に質問事項を渡されているのですが、その中に「野村萬斎をどう思いますか」と言うのがあって、これが一番困るんですねwww福岡の公演にいつも来てくださる社長さんが、息子さんが後を継いでおられるので、息子のことをどう言えばいいかと、相談したら、その社長さんが息子さんがパーティーであまり売れていない歌手を呼んだことがあって、その歌手が1年後には紅白に出場していたという話をされた。考えてみると、先見の明を持つことの大切さ、古い立場からばかり物を言ってはいけないのだと反省したとのことでした。
 ジャーナリズムの方々に聞かれて気軽に答えてしまうと、後で、失敗したと思うことがあるので、気を使わなければいけません。「鐘の音」の主人のように端折って、おっちょこちょいに言ってはいけませんと、最後は「鐘の音」に繋げて終わりました。
 伝統を守りつつ、息子の新しい活動も理解していこうとする万作さんのあり方、お話はなかなか含蓄があって考えさせられました。

「蝉」
 旅の僧が善光寺へ行く途中、信濃国上松に着くと、見事な枝ぶりの松に短冊が掛っているのを見つけます。そこには、空蝉が光源氏に詠んだ和歌「蝉の羽にかき置く露の木隠れて忍び忍びにぬるる袖かな」が記されていました。土地の者に尋ねると、昨夏、烏に襲われ落命した蝉の後世を弔うため、人々が短冊を掛けているのだと言います。勧められるまま僧が読経していると、蝉の亡魂が現れ、舞を舞い、冥途の苦患を語りますが、やがて僧の導きで成仏するのでした。

 小舞では何回か観たことがありますが、狂言として観るのは初めてです。舞狂言で夢幻能の様式に添った能のパロディーです。
 正先に松の作り物が出され、太一郎さんの旅僧も重々しく良いお声です。後半は萬斎さんの蝉の亡魂が烏に喰われた様子や地獄に堕ち苦しんだ有様を謡い舞うのが見どころです。キレの良い舞のところどころにユーモラスな雰囲気や哀しみもあり、最後の「つくつく法師になりにけり」は、狂言らしい洒落が効いてて、笑いも起っていました。