| 2006年9月29日 (金) |
第四回飛鳥山薪能〜木村薫哉追善〜 |
会場:飛鳥山公園内野外舞台 19:00開演
お祓い:王子神社神主 本日の能・狂言についての解説:横浜能楽堂館長・山崎有一郎 火入れ式
『橋弁慶』 シテ(弁慶):梅若晋矢 トモ(従者):梅若慎太朗 子方(牛若丸):梅若美和音 間(都の者):深田博治 大鼓:安福光雄、小鼓:鵜澤洋太郎、笛:松田弘之 後見:山中迓晶、梅若靖記 地謡:内藤幸雄、井上燎治、角当直隆、小田切康陽 山崎正道、松山隆雄、角当行雄、会田昇
「佐渡狐」 佐渡の百姓:野村萬斎 奏者:野村万作 越後の百姓:高野和憲 後見:月崎晴夫
半能『融』 シテ(融大臣):梅若六郎 ワキ(旅僧):森常好 大鼓:安福光雄、小鼓:鵜澤洋太郎、太鼓:助川治、笛:松田弘之 後見:山崎正道、平井俊行 地謡:松山隆之、山中迓晶、小田切康陽 松山隆雄、小山文彦、土田晏士
『橋弁慶』 五条の橋での弁慶と牛若丸の出会いを描いた能ですが、弁慶が五条天神の丑の刻詣での満願の日なので出かけようとすると、従者が五条の橋に小太刀で人を斬ってまわる化生のものが出るからと止めます。それを聞いた弁慶は逆に、その化け物を退治しようと出かけていきます。 一方母の命で寺に帰るよう諭された牛若丸は今夜が最後と五条の橋で人が通るのを待っていると、長刀を肩にした弁慶がやってきます。弁慶は女装した牛若丸を相手に戦いますが、牛若丸に翻弄され負けてしまいます。弁慶は感服して、牛若丸と主従の契りを結び九条の御所へ供をしていくのでした。
席が正面右斜め前のような席だったので、篝火と舞台脇のスピーカーが重なって、ちょうど能舞台のワキ柱が邪魔になっちゃうような感じで、少し見難かったです。 大きいスピーカーが近くにあり、右後から声が聞こえてくるような感じで、謡いなどははっきりと聞きやすいのですが、思い切り声を張り上げる子方の声は、かえってキンキンして聞きづらかったです。 梅若晋矢さんの弁慶が、声も雰囲気も意外と貫禄があってかっこ良かったですねぇ。晋矢さんはもっと細いイメージだったんですが、顎のあたりも少しふっくらしてきたようで、それがかえって弁慶らしい強さと貫禄になってたみたいです。若い従者の慎太朗さんとの息も合ってたし。 アイは普通は二人出て、五条の橋で斬られたと言って逃げてくる者と、話を聞いて臆病ぶりをからかう者とのやりとりがあるようなのですが、今回はアイは一人でその話をして去っていくというものでした。
「佐渡狐」 萬斎さんの佐渡の百姓に万作さんの奏者、高野さんの越後の百姓という組み合わせで、賄賂を渡すところと、カンニングをしようとするところを越後の百姓が邪魔する場面はいつも笑わせられます。 ちょうど、賄賂(袖の下)を受け取った時の万作さんの表情が真正面で見られる角度で、そっぽを向きながらちょっとにんまりした顔が良く見られて面白かったです。真面目そうな高野さんの越後の百姓に、見得を張って佐渡には何でも無い物はないと言い切ってしまった萬斎さんの佐渡の百姓は、ちょっとずるくて、それでいて間が抜けている。そんな雰囲気がぴったりでした。高野さんのマイクの調子がちょっと悪くて、時々声が聞きにくかったのが残念です。
半能『融』 半能で後場だけなので、旅僧が六条河原院で休んでいると、夢に融大臣が貴公子の姿で現れ、昔を懐かしみ名月の下で舞を舞い、夜明けに月の都へ去っていくというものです。 六郎さんの融大臣は長い髪が横に垂れているので、面の脇が隠れてちょうど良かったようです。体の厚みはさすがにあり、亡霊のはかなさはあまり感じられませんでしたが、手の動き、舞の美しさに、名月は見えるようでした。 |
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| 2006年9月24日 (日) |
第15回櫻間金記乃會 |
会場:国立能楽堂 14:00開演
能『実盛』 シテ(老人・斎藤実盛):櫻間金記 ワキ(遊行上人):森常好 ワキツレ(従僧):野口能弘、森常太郎 アイ(里人):石田幸雄 笛:一噌仙幸、小鼓:曽和正博、大鼓:亀井広忠、太鼓:助川治 後見:守屋泰利、飯田芳伸 地謡:鈴木武義、本田芳樹、本田布由樹、大塚龍一郎 山井綱雄、本田光洋、吉場廣明、鈴木圭介
狂言「磁石」 シテ(すっぱ):野村万作 アド(田舎者):野村萬斎 小アド(宿屋):野村万之介
半能『石橋』 シテ(白獅子):櫻間金記 ツレ(赤獅子):山中一馬、政木哲司、柴山暁 ワキ(寂昭法師):野口敦弘 笛:松田弘之、小鼓:幸清次郎、大鼓:亀井忠雄、太鼓:観世元伯 後見:山井綱雄、横山紳一、本田芳樹 地謡:中村昌弘、金春憲和、本田布由樹、大塚龍一郎 辻井八郎、金春安明、高橋忍、井上貴覚
『実盛』 遊行上人が、加賀国篠原で説法を行なうと、毎日聴聞にくる老人がいたが、不思議なことにその姿は上人にしか見えなかった。今日もやってきた老人に上人が名前を聞くと、老人は人払いして、昔、斎藤実盛が篠原の合戦で討たれ、眼前の池で黒く染めた髪や髭を洗った話を語り、自分はその実盛の幽霊だと名乗って池の辺に姿を消す。里人が上人の独り言を不審に思って尋ねると、上人はそれには答えず、逆に実盛のことを里人に問う。里人は、実盛の戦死について語り、弔いを勧める。 上人一行が念仏を唱えて弔っていると、甲冑姿の実盛の霊が現れて上人の回向を喜び、仏法帰依の心を述べて、篠原の合戦の様を語る。髪髭を黒く染めて戦に向かった訳や、一期の思い出として赤地の錦を着て故郷に帰りたいという願いがかなっての出陣のいきさつを語り、老武者の心意気を表わす。最後に手塚太郎光盛と組み、無念にも首を落とされたさまを見せ、跡を弔ってほしいと上人に頼んで消える。
櫻間金記さんは、ちょっとビブラートがかった声ながら、言葉は明晰で、前シテの小柄な老人はいかにも老人らしく、また、後シテの白髪の老武者は威厳があり、大きく見えました。 60を過ぎて戦に出て、若者に争って先を駆けるも大人気ないし、老武者と侮られるも口惜しいと、髪髭を墨で染め、故郷へ錦を着て帰りたいと、赤地の錦の直垂を着て出陣する老武者の心意気。木曾義仲と組まんとして、手塚太郎に隔てられ、太郎と組み合い、力尽きて郎等に首落とされた無念を語る。老武者の勇猛さと無念が、伝わってくる良い舞台でした。
「磁石」 大津松本の市を見物にきた田舎者が、縁のある者のように近寄ってきたスッパに騙され、人買いに売られそうになるところを事前に察知して逃亡。追ってきたスッパの刀を田舎者は磁石の精だと名乗って呑もうとする。太刀を収めると死んでしまうというので、スッパは太刀を収め、死んだ振りをした田舎者を見て後悔したスッパが太刀を置いて祈ると、起き上がった田舎者が太刀を奪って追い込むという話。
眠っている隙に、スッパが人買いと商談しているのに気付いて、盗み聞きし、裏をかいて売買のお金を横取りして逃げていったり、慌てて追いかけたスッパに太刀をぬかれると、咄嗟に大口を開けて太刀を呑む真似をして、磁石の精だと言ったり、この田舎者は、機転がきくというか、実にしたたかです。それに対し、スッパは、以前にも、人買いのところに連れてきた男に逃げられているらしく、果ては磁石の精だという奇想天外な話を信じて、最後には、死なせるつもりではなかったと蘇生を祈ったり、なんともお人よしで、立場が逆転しています。 この演目は、深田さんの田舎者で観ていることが多くて、なんとなくそのイメージの方が強くなっていました。深田さんの場合は無骨な田舎者のイメージがあり、それが、必死の機転でスッパを逆に騙すというふうにも見えますが、萬斎さんだと、どこか、小ずるい都会的な若者の感じがします。しかし、大口を開けて刀を呑もうとする顔は面白かった(笑)。それに、死ぬふりをして、ふらふらと仰向けに倒れるかと思いきや、すっと横になった時の動きが綺麗でした。もちろん、人買いに売られちゃかなわないけれど、ちょっと悪人になりきれない万作スッパが可愛そうにも思えました。
半能『石橋』群勢 半能なので、ワキの寂昭法師が聖地清涼山を訪れて、石橋を渡ろうと思って一休みしていると、霊獣の獅子が現れるという展開です。
白獅子1頭に赤獅子2頭までは観たことがありますが、群勢という小書で赤獅子が3頭出てくるのは珍しく、初めてです。今回はこれがちょっと見たくてチケットを買いました。 紅白それぞれの牡丹の木のついた一畳台は正先先端までは持ってこないで少し前を空けて右に白牡丹のついた台を横に置き、その後の左寄りに前の台の左側と後の台の右側がすこし重なるよう鍵型に紅牡丹が左についた台が置かれます。その他に笛柱の前にちょうど笛柱を後にするように斜めに作り物が置かれ、白獅子はその中から現れます。 「石橋」の獅子の舞いのお囃子は、出のところも独特で、一旦音がやんでから、また徐々に盛り上がって獅子が出てくる。好きなお囃子です。 獅子は揚幕が一度半分だけ上がり、獅子の半身だけ見せてまた隠れ、しばらくして幕が上がって赤獅子が出てきます。最初に1頭だけ金色の面の赤獅子が出てきて舞い、次に2頭の赤獅子が幕から出てきます。最初の金の面の赤獅子が正面の台で舞っている時、2頭が橋掛かりで舞っていたり、作り物から青い面の白獅子が現れ、金の面の赤獅子と正面で舞ったり、赤獅子3頭が正面で舞う時、白獅子が橋掛かりで舞ったりしながら、最後は4頭が正面で舞うというふうに工夫がされていて、一畳台の前の空間も巧く利用されていました。 獅子が3頭で、紅白にピンクの牡丹と3つ台を出すものもありますが、一畳台の上を3頭が上がったり降りたりはちょっと窮屈な感じがする時もあります。今回は4頭で、谷落としの型や牡丹の枝に足を掛けて戯れる型はありませんでしたが、かえってスッキリして窮屈そうな感じもせず、良かったと思いました。いつもの石橋の獅子の舞いとは、流儀の違いもあるかもしれませんが、だいぶ型が違っていました。赤獅子は台の上り下りも脚を揃えて飛び上がり、飛び降り、勢いが良く、それに対し、白獅子は飛び上がり、飛び降りはしませんでした。老獅子の威厳という感じでしょうか。人数が多いとやはりそれだけ華やかですが、白獅子が目立たなくなるという感じもしました。やっぱり、獅子は赤白2頭の親子獅子がちょうど良いような気もします。 |
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| 2006年9月23日 (土) |
第二回喜正の会 |
会場:矢来能楽堂 14:00開演
仕舞「半蔀」観世喜之 「玉鬘」観世銕之丞 地謡:小島英明、駒瀬直也、長山禮三郎、鈴木啓吾
能『野宮』合掌留 シテ:観世喜正 ワキ:宝生欣哉 アイ:野村萬斎 大鼓:亀井広忠 小鼓:曽和正博 笛:藤田六郎兵衛 後見:長山禮三郎、観世喜之 地謡:長山耕三、遠藤喜久、中森寛太、長沼範夫 駒瀬直也、岡田麗史、観世銕之丞、柴田稔
平日の寝不足を土日で寝溜めしようという生活のせいか、どうも昼食後も眠くなる(笑)。 ちょっと、仕舞の時は、瞼が重い状態でした。どちらも『源氏物語』にちなんだ能の舞で、「半蔀」は夕顔、「玉鬘」は夕顔の娘、玉鬘の霊の舞です。
『野宮』 諸国一見の旅僧が、嵯峨野宮の旧跡を訪れ、一人の女と出会う。僧が尋ねると、本日9月7日は、故事を偲び神事を執り行うために宮を清めるのだから、早く帰るようにと出立を促すが、僧はその故事に興味を覚え重ねて尋ねる。女は、9月7日は光源氏がここ野宮に六条御息所を訪ねて来た日であると答え、僧の求めに応じて、御息所が源氏の訪問をうけた後、伊勢へ下向して行ったことなどを語り、自分が御息所の亡霊であると告げて、鳥居の陰に姿を消す。 そこに訪れた土地の者に僧が謂れを尋ねると、土地の者は光源氏と六条御息所の故事を語り、僧に御息所の霊を弔うよう促す。 僧が弔っていると、御息所の亡霊が車に乗って現れ、賀茂の祭りで葵の上と車争いをして敗れたことを語り、未だこの世に思いを残す、その妄執を晴らしてほしいと僧に頼み、昔を思い起こして舞を舞い、ひとときの狂乱の後、成仏を願い、火宅の車に乗って消えてゆくのであった。
女性としては、上背がありすぎる喜正さんですが、今日はその大きさが気になりませんでした。面も雰囲気も品があって美しい。断ち切れない思いを絶つべく、光源氏に別れを告げた御息所の苦しさ、哀しさ、ちょっとしたためらい、それらが、しっとりと感じられて、とても良かったと思いました。 萬斎さんのアイも重すぎず、軽すぎず、落ち着いた雰囲気の良いアイだったと思います。このごろの彼のアイはとても良くなっなあと、安心して見られることが多いです。 |
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| 2006年9月18日 (祝) |
『敦』―山月記・名人伝 |
会場:世田谷パブリックシアター 18:00開演
「山月記」 李徴:野村万作 袁傪:石田幸雄
「名人伝」 紀昌:野村萬斎 甘蠅・老紀昌:野村万之介 紀昌の妻・飛衞・主人:石田幸雄 都人士:深田博治、高野和憲、月崎晴夫
敦:野村萬斎 敦たち:深田博治、高野和憲、月崎晴夫 大鼓:亀井広忠(2日・16日:原岡一之) 尺八:藤原道山
再演、いや再創造の『敦』として、初演の時と比べると細かい違いもかなりあるけれど、全体的な印象というか、感想を書いてみようと思う。 初演の時はまだ、「山月記」「名人伝」の物語を舞台化したものであったのが、今回は、一見正反対のように見える李徴と紀昌が中島敦本人と、より一体化した形で、敦本人の姿・その世界を表現しているように思われた。敦の内面にせまり、より深化し、生の人間の声として迫ってくるようだ。 冒頭の敦の写真(遺影)と三日月の舞台の上の祭壇には花と位牌が置かれ、モーツァルトのレクイエムをBGMに、中島敦の生涯を語る萬斎さんの声が流れて、鎮魂の意味をより鮮明にリアルな形にした演出になっている。 舞台が暗くなり、今度は、台の上に横たわる万作さんの敦から幽体離脱するように現れる萬斎敦、そしてまたそれが分裂するように現れてくる敦たち。ここも、以前の客観的な語りではなく、死んだ敦自身が語っているような感じがする。 起きあがった万作さんが、スーツに靴、メガネの敦スタイルで、李徴の姿に変わってもメガネを取らないのは、李徴と敦の同一化を狙ってのことだろう。 特に東京千秋楽での万作さんの李徴は、力が入っていて渾身の演技だった。「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」のために人との関わりを避け、虎になってしまった李徴が、それでも自分の未発表の詩が世に出ることに執着し、一方でそんな自分を自嘲している姿は、初演より生々しく李徴の慟哭と惨めな己の対する慙愧の念を伝えていた。李徴には作家としての敦自身の苦しみ、自分の才能に対する懐疑が投影されている。分裂した李徴=敦たちは時に嘆き、時に自分自身である李徴を責め立てる。表情も言葉も初演時より感情がこもってきた敦たちの存在感も増したような気がする。そこここに見られる万作さんの狂言の型や舞が美しく、型の美しさと型を超えた自然さとが交じり合い、メリハリにもなり、初演の時より能的ということを意識しなかった。
「名人伝」の紀昌はより軽やかで、自分の目的を極めるためならば、周囲も家族のことも省みず何のためらいも無く突き進む。ついに師匠の飛衞をも亡き者にすれば自分を超える者はいなくなるという邪心を起こしながら、それに失敗すると俄かに悔悟の思いを起こし、すぐに師匠の示した新たな目的に突き進む、その姿が無邪気そのものに見える。漢字遊びの演出やコミカルな演技も初演の時より、さらに磨きがかかって楽しく、敦たちも生き生きと動き語っていた。 甘蠅老師の下で「不射の射」を会得して山を下りた紀昌は、真の弓の名手と評判を得ながら、死ぬまで弓を取ること無く、最後には弓の名も使い道も忘れ果て、無為となって死んでいく。すべてを捨てて道を極めたはてに、その道の意味すら忘れてしまっていた。やはり、ここにも敦の懐疑がのぞく、ある意味怖い最後でもある。 エピローグは初演と大きく違い、死んだ紀昌の姿に、敦となった萬斎さんは狂ったように笑った後、しばし沈黙。背中に哀しみが漂っている。そして、台に横になった老紀昌の遺体を前に「何のために生まれてきたのか」「何のために生きているのか」という慟哭になり、プロローグとエピローグがここで一つに繋がってくる。初演の時の淡々とした語りでは、まだ理屈っぽいインテリの言葉だったものが、激しい喘息の発作に苦しみながら、常に死を見つめて生きてきた敦の肉声の叫びとなって心に響いてきた。それは、今回の舞台をやっていくうちに段々に深められ、心に響くものになってきたように思う。敦のように、突き詰めて考えていなくても、誰もが漠然と抱いている死への不安、世界の終末の不安、自分の意思とはかかわり無く、この世に生まれ、死んでいく自己の存在意義への疑問が一人の人間の叫びとして共感できたからではないだろうか。
舞台は生もの。初演とは大きく変わり、やっていくうちにまた、日々変わっていく舞台はそのたびに確実に深化していて、まだ、これからの東京以外の舞台でも変化し続けていくかもしれない。これが最高と満足してしまうのでは無く、もっと、さらにと、挑戦し続けていく、この人の舞台は面白い。だから飽きることが無い。
最後に、この舞台では、祭壇の場面のBGM以外は、大鼓と尺八のみで、効果音も出しているが、演者と相対して、その時々の息、間に合わせて音を出し、掛け声を出しているのがすばらしい。指揮者がいない邦楽の世界で普段の舞台で培ってきた、演者との駆け引き、合わせるだけでなく、時に囃子がリードを取ったりすることもある絶妙な間合いと生の迫力が非常に効果的に舞台を盛り上げていたと思う。能楽囃子ではなく、大鼓と尺八という組み合わせがこんなに合うというのも新しい発見であった。 |
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| 2006年9月17日 (日) |
邦楽コンサート『獅子虎傳阿吽堂vol.3』 |
会場:世田谷パブリックシアター 14:00開演
構成・演出・出演:亀井広忠、田中傳次郎 出演:観世喜正、市川段治郎、市川春猿 演奏者:杵屋巳吉、栗林祐輔、森貴史 田中傳八郎、望月太左一郎、望月太喜之助
一、囃子ワークショップ 広忠さんと、傳次郎さんによる鼓の構造や実演を交えての音の出し方の説明です。この会も三回目なので、この話も3回目になります。 その後、能の囃子方と歌舞伎の囃子方が出てきて、どちらにもある『カケリ』と『鞨鼓』のお囃子をそれぞれ演奏して聞き比べました。笛と大鼓は能の方が強い感じがして、歌舞伎は三味線が入ると、調子よく、軽い感じになりますね。
二、謡と台詞と音楽の関係 ゲストの観世喜正さん、市川段治郎さん、市川春猿さんが加わり、基本の型、歩き方、笑いと泣く型、などの比較、能の男舞と女の序の舞の違い、歌舞伎の立役(男)と女形の動きの違いなどを比べました。能は少ない動きでも男と女の違いを表していて、歌舞伎はもっと写実的に強調した動きで違いを表しています。歌舞伎の大見得を切るところなど、大きな型と化粧もしてないのに、隈取りをしているような顔の変化が面白かったです。歌舞伎のほうには、大太鼓や銅鑼、それに、あの独特な拍子木(名前は忘れた)を叩く音が入りました。 この違いは、抽象的な歌舞劇と写実的な演劇の違いの他に、舞台や劇場の大きさの違いなども関係しているのじゃないでしょうか? 謡は喜正さんが『井筒』と『高砂』を能楽囃子で謡い、歌舞伎の有名な台詞を段治郎さんと春猿さんが、三味線の囃子でやりました。客席も一緒に謡っていいですよ、とのことでしたが、さすがに、見事な謡いについていくのは気が引けるのか、一緒に謡う人はいませんでした。
三、能と歌舞伎による「立ち回り」 能『熊坂』より、熊坂長範と牛若丸の立ち回りを、喜正さんの謡いと、能楽囃子、歌舞伎囃子で段治郎さんと春猿さんが演じました。 歌舞伎囃子での立ち回りのあと、能の謡いと能楽囃子での立ち回りと、違和感は無く、なかなか面白いコラボでした。 |
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| 2006年9月15日 (金) |
サントリーホール20周年記念フェスティバルオープニングコンサート |
会場:サントリーホール 大ホール 19:00開演
「三番叟」 三番叟:野村萬斎 千歳:深田博治 笛:松田弘之 小鼓頭取:大倉源次郎 脇鼓:古賀裕己、田辺恭資 大鼓:亀井広忠 後見:竹山悠樹、時田光洋 地謡:石田幸雄、高野和憲、月崎晴夫、破石晋照
「ノベンバー・ステップス」武満徹 琵琶:友吉鶴心 尺八:藤原道山 指揮:クリスティアン・アルミンク 管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
「ボレロ」ラヴェル 指揮:クリスティアン・アルミンク 管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
監修:野村萬斎
サントリーホール20周年記念ということですが、今回は、萬斎さんの監修でした。どうりで、クラシックの選曲がこだわりの『ボレロ』。 ホールでの公演なので、どんな演出でやるかも楽しみの一つ。 初めの「三番叟」の時は、舞台の後側にスクリーンが下りていて、その前の階段状のところに地謡、お囃子が並びます。ちょっと薄暗いブルーの照明の中をお囃子、地謡が位置につき、千歳と三番叟が出てきて、千歳の深田さんは舞台の右前に、三番叟の萬斎さんは左後に座ります。 照明が明るくなって、まず、千歳の深田さんの舞、地謡が入り、ここのところ声の調子の良くない深田さんですが、まだ、少しかすれる感じはあるものの、そんなに気になるほどでもなく、声も少しずつよくなっているようで安心しました。舞もしっかりと気合が入っていて良かったです。 千歳の舞が終わり、照明が落ちて暗くなり、また少し明るくなると三番叟の萬斎さんが正面後方に位置を変えて座っています。お囃子が始まると、照明が赤くなり、スクリーンにもやもやと煙のような映像、やがて火山から噴出してくる様子を上から見たような映像になり、また、もやもやとした煙になります。「揉の段」は、火山の爆発するような勢い、イメージでしょうか、しかし、このままでは、ちょっと見づらいと思ったら、照明が明るくなって、スクリーンの映像も消え、「お〜さえ、お〜さえ、お〜」と掛け声とともに舞が始まりました。私の席は1階の一番後ろ、左側でしたが、やはり、非常に気合が入っているのが分かりました。松田さんの笛や小鼓、大鼓のお囃子も良かったのですが、コンサートホールなので、音が響きすぎる感じもあり、足拍子の音も能舞台とは違う感じでした。それに、萬斎さんの舞が、この人にしては珍しく、烏飛びの前後に、ちょっと足腰がふらつくような不安定さがあり、おやっと思いました。タイミングの問題かもしれません。 「揉の段」が終わって、また少し照明が暗くなり、「鈴の段」に入る前に、両端から後見が入ってきて舞台の外側左右に座ります。スクリーンには雲がたなびいて、大きな月の映像が映し出されます。映像の月が消えて、薄い雲の流れる映像だけになり、上からミラーボールが下りてきました。え〜!ミラーボールがギラギラ回るなんてことは、まさか無いでしょうね・・・と思いつつ(汗)。どうやら、映像の月の替わりにミラーボールが月のイメージのようでした。 後見から面を受け取り、面をかけた萬斎さんの「鈴の段」が始まり、静かな月のイメージから、段々盛り上がってくる。萬斎さんが、「ボレロ」に喩える「鈴の段」。神々しい雰囲気の中、お囃子も段々早くなって、登りつめぱっと終わるときに、スクリーンにミラーボールを反対側から光を当て、月食のようにして映し出しました。これはなかなかのアイデアです。満月から月食。「鈴の段」の神秘的雰囲気にも合っていました。途中、ミラーボールが少しキラキラっとしたそうなんですが、それは気がつきませんでした。
「ノベンバー・ステップス」 休憩の後、オーケストラと琵琶、尺八のコラボでの演奏です。 この曲、前衛的な感じですが、どっかで聴いたことのあるような曲です。テレビか映画のスリラー物か何かでも聴いたことがあるような・・・。「子午線の祀り」の舞台で使われていたのでは、と言われると確かにそのような気もします。こういう曲は嫌いという人も多いようですが、途中で尺八と琵琶の演奏が入り、オーケストラの演奏が入りと、交互に演奏するというやり方で、あまり違和感は無く、かえってこういう曲だから合ってたんじゃないかと思いました。特に琵琶は普通の弾き方とは違う弾き方をしてたようで、こんな音の出し方もあったんだと尺八と琵琶のコラボは面白かったです。
「ボレロ」の演奏の前、萬斎さん、亀井広忠さん、藤原道山さん、友吉鶴心さんの4人が舞台に現れ、20年にちなんで、それぞれの20年前、20年後についてということで、一言ずつ語ってくれました。 萬斎さんは、不惑の歳、20年前は二十歳で、20年後は還暦。今まで失敗したことも、これから生かせていけたらと思っています。とのことでした。 広忠さんは20年前は、小学生。20年前だと萬斎さんとは大人と子供で、だいぶ歳が離れています。道山さんは、中学生だったとのこと、「ノベンバー・ステップス」の曲と出合ったのがこのころで、いつか自分も演奏したいと思っていたところ今回実現できて、とても嬉しかったとのことです。 友吉さんは、琵琶奏者の家に生まれながら、琵琶の道には行かず、鶴田先生に琵琶を習いだしたのが20歳を過ぎた20年前頃とのこと。しかし、プログラムのプロフィールを見たら萬斎さんと1歳しか違わない!どうみてもかなり年上のように見えてびっくり。萬斎さんが若すぎるせいかもしれません(笑)。
クラシックの良し悪しはわかりませんが、「ボレロ」は、オーケストラで聴くのは今回が初めてです。やはり、生は迫力があって良いです。初めのほうに様々な吹奏楽器で順番に吹いていき、段々雰囲気が盛り上がっていく。ソロの時、多少音程が?と思う楽器もあったんですが、気のせいでしょうか?最後の盛り上がりは最高でした。しかし、テンポが速くなる「鈴の段」とは違い、「ボレロ」の場合はテンポは変わらず、楽器の音や種類が増えることで盛り上がるんですね。でも、全体的に、なかなか良い企画だったと思います。 |
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| 2006年9月8日 (金) |
銕仙会9月定期公演 |
会場:宝生能楽堂 18:00開演
『竹生島』女体 シテ(漁翁・弁財天):浅井文義 前ツレ(女):馬野正基 後ツレ(龍神):片山清司 ワキ(臣下):宝生欣哉 ワキツレ(従臣):御厨誠吾、梅村昌功
替間「道者」 アイ(能力):石田幸雄 (道者):深田博治、月崎晴夫、高野和憲、竹山悠樹
笛:一噌隆之、小鼓:観世新九郎、大鼓:柿原弘和、太鼓:観世元伯 後見:浅見慈一、野村四郎 地謡:安藤貴康、谷本健吾、長山桂三、小早川修 岡田麗史、若松健史、浅見真州、阿部信之
「見物左衛門」深草祭 シテ(見物左衛門):野村萬斎 後見:時田光洋
『清経』 シテ(平清経):柴田稔 ツレ(清経ノ妻):鵜澤久 ワキ(淡津三郎):則久英志 笛:藤田次郎、小鼓:鵜澤洋太郎、大鼓:亀井実 後見:永島忠侈、北浪昭雄 地謡:長山桂三、遠藤和久、西村高夫、清水寛二 鵜澤郁雄、山本順之、観世銕之丞、長山禮三郎
『竹生島』 小書の「女体」は金剛流と喜多流にあるもので、観世流で上演するのは、30数年前に、先代観世右近宗家と先代喜多実宗家が、観世流の「松風」の小書「戯之舞」と、喜多流の「竹生島」の小書「女体」を交換されたということで、今回、観世宗家の了解を得て上演することになったとのことです。 普通は、後シテは龍神なのですが、「女体」では弁財天が後シテになり、舞も変わるようです。小書の無い『竹生島』は2月の国立能楽堂定例公演で観ていますので、あらすじは省略します。 今回は、替間の「道者」が入り、これは初めてで、なかなか面白い間でした。 しかし、寝不足気味につき、今回も前場では気が付くと、臣下の欣哉さんが、船の作り物に乗ってたりして、あれ、いつの間に・・・などと、困ったものです(^^;。替間からは、ちゃんと観られました。 この「道者」は和泉流だけの替間で、能『白髭』『江野島』にもある替間だそうですが、『白髭』『江野島』は能自体が演じられることの少ない稀曲であり、『竹生島』では替間として演じられることが少ないため、『竹生島』で「道者」というのは非常に稀な曲だそうです。
竹生島の弁財天に仕える能力が、竹生島の由来を述べ、参詣の人を待っていると、北国方の道者(二組の夫婦者)がやってきますが、竹生島は女人禁制と聞いているので、所の者に尋ねてみようということになります。能力に案内を乞い、弁財天を拝ませてもらおうと、女人禁制について問うと、能力は「それは知らぬ人のいうことで、女人こそ参るべきところである。弁財天は女体にて、殿御を頭に戴いているのは、女は夫を大切にするよう示しているのだ。」と言います。続いて能力は、道者たちに霊宝を拝ませ、道者たちの諸願成就・息災延命を祈願します。ここで出てくるお宝というのが、蔵の鍵や天女の数珠の他、牛の玉や、馬の角、二股の竹に天女の腋毛など、あやしげな物が出てくるわ出てくるわ、そのたび「笑うでない」と講釈する石田さんが可笑しい。とっても楽しそうにお宝を出してみせる石田能力でした(笑)。喜んだ道者たち、最後は女が夫を肩車してめでたく帰っていくのでした。今回の女役は月崎さんと竹山さん。なかなか、肩車も大変そうですが、こんな終わり方も本当に珍しいものでした。
後場は作り物から後シテの弁財天が姿を現し、盤渉中之舞を舞い、後ツレの龍神が湖中から現れて臣下に珠玉を捧げて勇ましい舞を舞っていきます。片山清司さんの龍神は大変勢いがあって力強く気持ちが良く、龍神が去った後に、また、弁財天の舞が入って終わりました。 替間で目が覚めたため、後場の舞は大変楽しく、引き付けられて観られました。
「見物左右衛門」深草祭 4月の「友枝昭世の会」で、万作さんの「見物左右衛門」を観ました。その時も《深草祭》だったので、もう一つあるという《花見》はまだ観ていません。 独り狂言なので、他の出演者はなく、独りで演じます。それも、独り言ではなくて、見物しながら他の人と話したり、最後には相撲をとったりするのが面白いところです。そんな関わりが生き生きと表現されるところに演者の力量が試される難しい狂言だとも言えますが、萬斎さんは今年は40歳の節目を迎え、あえて難しい役に挑んでいるようにも思えます。 演者が違うと雰囲気が違うものです。やはり、萬斎版「見物左右衛門」というのでしょうか、若々しくておちゃめな感じの見物左右衛門でした。それゆえ相撲を取るときに“歳をとっても”というようなことを言うのがちょっと違和感ありました。ただでさえ、年齢より若く見えますからね(笑)。やっぱり、年齢がいってからやる演目としてできているのでしょうか。でも、若くておちゃめで、ちょっとオバカな(笑)見物左右衛門もなかなか良いものです。
『清経』 都落ちした平家一門の平清経が前途に絶望して入水自殺したため、家臣の淡津三郎が形見の黒髪を清経の妻に届けるところから始まります。妻は自分を残して自ら死を選んだことを恨み哀しみ、形見の黒髪を宇佐八幡に手向け返してしまいます。そして、夢の中に現れた清経と妻との語り合いに、すれ違う男女の思いに切なさを感じる能です。何度か観ている能ですが、今回は、残念ながらまたしても度々沈没してしまいました(^^;。 妻役の鵜澤久さんは、女性のシテ方です。じっとしている時にピクリとも動かないのは流石だと思いましたが、なんか、やはり女性の生々しさが出てしまうのが、難しいところだなあと感じてしまいました。 |
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| 2006年9月4日 (月) |
納涼茂山狂言祭2006 |
会場:国立能楽堂 18:30開演
お話:茂山正邦
「蝸牛」山伏:茂山千五郎、主人:茂山千作、太郎冠者:茂山千三郎 後見:茂山童司
「鎌腹」太郎:茂山千之丞、女房:茂山茂、仲裁人:網谷正美 後見:島田洋海
「死神」 男:茂山七五三 死神A・B:茂山あきら 召使A:丸石やすし、B:茂山正邦、C:茂山童司 奥方:松本薫 後見:島田洋海、増田浩紀
茂山家の狂言会、以前から見たかった「死神」が見られるというので行ってきました。 正邦さんの話は、何を話てもいいと言われたけれど、こういう話は苦手と言う正邦さん。自分が怪我をした時の話などしていました。演目の解説はあまりありませんでした。まあ、あまり解説しなくとも充分楽しめる演目ではあります。
「蝸牛」 何回も観ているオーソドックスな演目ではありますが、茂山家で観るのは初めてかもしれません。あらすじは、和泉流と変わりありません。終わり方はいくつかあるのですが、最近観た「蝸牛」はいずれも主人共々浮かれながら幕入りするもので、やはり、それが一番楽しいですね。今回もそうでした。 千五郎さんの山伏はいかにも威張った山伏で、太郎冠者をなぶってやろうと言うのもちょっと意地悪っぽい感じがします。気の良さそうな千三郎さんの太郎冠者が山伏にのせられてしまうのですが、千作さんの主人に怒られて、二人で「お前は山伏だろう」「まいす(偽)だな」などと言うものの山伏の拍子に乗せられてついつい体が動き出してしまう。その時の千作主人の表情の変化がなんともいえません(大笑)。最後は三人で楽しそうに浮かれながらの幕入りです。 ここのところ足腰の具合が良くないらしい千作さん。浮かれての幕入りもあまり足を上げて拍子をとるのが難しいようでしたが、それでもやっぱり千作さんの存在はすごいです。その表情、ちょっとした仕草、言いかたが笑いを誘ってしまう。皆を楽しい雰囲気で包んでしまいます。
「鎌腹」 これも何回か観ていますが、やはり茂山家では初めてです。先日、千之丞さんの「独り松茸」を観ましたが、独り芝居に近い、この「鎌腹」も千之丞さんの独壇場。茂さんの「わわし“すぎる”女房」もここではぴったりのコンビです。騒々しく怒った妻に追われて出てくる太郎ですが、仲裁人が棒につけた鎌を振り上げる妻を止めているあいだ、橋掛かりで「どうか、止めてくだされ」と言って隠れている太郎。いかにも小心者の千之丞さんの太郎のその仕草と科白だけで可笑しい。結局しぶしぶ山へ行く太郎は、あの女房に殺されるくらいなら、いっそ自分で死んでやると思ってしまいます。茂さんの女房のわわしさは、太郎がそんな気になるのも無理は無いと納得してしまうほどのわわしさです(笑)。それから、鎌で腹を切ろうか、首を切ろうかと試しては結局死ねない太郎の一人芝居がなんとも愉快です。 やっぱり、自殺は無理だと思ってあきらめたところに、話を聞きつけて取り乱した妻が止めに現れます。慌てた太郎が、鎌を首に当てて死のうとしている振りをすると、妻が引き止めて、あなたが死ぬなら私も淵川に身を投げて死にますと必死です。だらしない夫でも本当は惚れているんですねぇ(^^)。調子に乗った太郎はそんなに言うなら自分の代わりにお前が鎌で死んでくれと言ったものだから、また、怒った妻に追い込まれてしまうのでした。気弱で怠け者の夫にわわしい妻、でも、喧嘩しながらずっと連れ添っていくのだと思わせる夫婦でした。 この終わり方は、今回初めてみました。千之丞、茂コンビの「鎌腹」にはぴったりの終わり方だと思いました。
「死神」 落語の「死神」を、笛方森田流の帆足正規さんが狂言化した新作狂言で、昭和56年に千之丞さんの演出で初演されたものです。 借金に負われた男が、いっそのこと死のうと考えていると、そこに死神が現れます。なんともしょぼくれた男の感じを七五三さんが、これまたハマリ過ぎの配役でよく出しています。あきらさんの死神は幽霊のような声ではなく、もっと歯切れが良いけれど独特な声の出し方で、人間とは違う死神の雰囲気を出しています。なぜか、男が気に入ったという死神は、男に死ぬ病人と助かる病人の見分け方を教えて医者になるよう勧めます。曰く、死ぬ病人は死神が枕元にいるから、これは寿命で、何をしても助からない。足元に死神がいる病人は、死神を退散させる呪文をとなえれば、死神が去り、どんな重病でもたちどころに元気になるとのこと。男にだけ、死神の姿が見えるようにしてやろうということでした。 言うとおり、医者になった男はたちまち名医ともてはやされて大金持ちになりますが、やがて、死ぬ病人ばかり続いて、また生活が苦しくなってきます。そこに、重病の長者の召使いが治療を頼みにやってきます。「ものもう」と訪ねる長者の召使いに、洗濯もの途中の男、召使いもなく、またしょぼくれた態の七五三さんが、のこのこ現れ、医者はどなたかと訪ねる長者の召使いに「わしじゃ」と言います(笑)。とにかく行ってみようということで出かける男ですが、病人に会うとやはり死神は枕元に座っています。 嘆く奥方が命を助けてくれたら千両出すという言葉に目がくらんだ男は、いいことを思いつきます。召使いを二人呼んで来させ、頭と足の方に待機させて、呪文を唱えながら死神の気をそらせた隙に病人を反対向きにし、足元になった死神を退散させようというわけです。 あきらさんが、プログラムに、「もともとはフランスの小話でありましたのでそこはかとなくバターの香りも・・・。」と書いてあったのは、この死神の気をそらせて退散させる場面の音楽でしょうか(笑)。七五三さんの謡う聞いたことのある音楽の拍子に乗って(題名は忘れてしまった)動く死神の動きも面白く、そこはかとなくバター臭い音楽も大いに笑えます。 さあ、うまく大金を手に入れて上機嫌の男の前に、いつかの死神が現れ、男を命の炎が燃えている場所に案内します。死神を騙して死ぬ病人の命を助けたことで、男と病人の寿命が入れ替わってしまい、男の命はまさに風前の灯。それでも、男が気に入っている死神は、間違って死んでしまった人の寿命と入れ替える機会を与えます。さて、うまく入れ替えないと死んでしまうと思うと手が震えてどうにもうまくいかない男。そのうち、とうとう命の灯が消えて、男はコロンと突然死んでしまいます。 終わり方はシュールでちょっと怖い、でもコテンと死んでしまう男がなんか笑えるのです。これも茂山家ならではの雰囲気でしょうか。
納涼狂言は、ファンのリクエストにより毎回演目や配役を決めているとのこと、今回は配役も皆、持ち味を生かしたピッタリのハマリ役で、本当に楽しい舞台でした。 |
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