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能楽鑑賞日記

2018年9月28日(金) 国立能楽堂開場35周年記念公演 狂言の会
会場:国立能楽堂 18:30開演

大蔵流
「福の神(ふくのかみ)」
 福の神:善竹忠一郎、参詣人:善竹隆司、善竹隆平
     地謡:大藏吉次郎、大藏基誠、善竹十郎、善竹富太郎

大蔵流
「射狸(いだぬき)」
 尼・古狸:山本東次郎、猟師:山本則重
     笛:槻宅聡、小鼓:森澤勇司、大鼓:高野彰、太鼓:桜井均

和泉流
「木実争(このみあらそい)」
 茄子の精:野村萬斎
 橘の精:石田幸雄
 柿の精:深田博治
 桃の精:高野和憲
 梅干の精:月崎晴夫
 葡萄の精:岡聡史
 栗の精:野村太一郎
 胡瓜の精:中村修一
 西瓜の精:内藤連
 南瓜の精:飯田豪
     笛:槻宅聡、小鼓:森澤勇司、大鼓:高野彰、太鼓:桜井均
        地謡:野村万作、野村僚太、破石晋照、野村裕基

「福の神」
 二人の男が、今年も出雲大社の福天の御前に年越しにやってきて、参拝を済ませて豆をまき始めると、笑い声がして福の神が現れます。二人が新酒の奉納を忘れていると、福の神は自分から新酒を催促し、酒奉行である松の尾の大明神に新酒を捧げてから自分も飲み干します。そして、豊かになるには元手がいると二人に話し始めます。元手がないからこうして参詣していると反論する二人に、福の神は、元手とは二人が考えているような金銀米餞ではなく、心持ちのことだと諭します。そして二人に、早起き、慈悲、隣人愛、夫婦愛などを実行するように説くとともに、福の神に美味しい新酒を捧げることを忘れるなと言って、謡い舞い、朗らかに笑って帰って行きます。

 何と言う事もない話ですが、和やかでおめでたい曲です。先代の千作さんなどは大らかで豪快な感じでしたが、忠一郎さんは上品でおっとりした雰囲気です。関西が中心の忠一郎家なので、隆司さん隆平さん兄弟も久々に観ますが、弟の隆平さんの声が良いのにちょっと聞き惚れ(^^;)
 そういえば、忠一郎さんが、二世善竹彌五郎を襲名なさるそうで、11月4日に大阪の大槻能楽堂で襲名披露公演があるそうです。初世は狂言師で初めて人間国宝になられた方です。

「射狸」
 このあたりの山に住む老狸は猟師に眷属を射取られてしまったので、漁師の伯母のお寮に化けて猟師に意見をして狸を射るのをやめさせようとします。日暮れ方、漁師が山へ出かけようとすると、伯母のお寮に化けた尼姿の狸が猟師を訪ねてきます。猟師は伯母だと思い込み、問われるまま狸をたくさん射たことを告げます。尼は後生を大切にしろと諭し、経典にも殺生、特に狸は射るなと説得します。猟師は弓矢八幡、狸はもとより殺生はしないと誓うので、伯母は喜んで、小唄を唄いながら帰って行きます。
 猟師は伯母の説得で誓言まで立てたものの、以前見つけていた古狸だけは射たいと思って出かけると、ご機嫌な伯母に追いつきます。伯母の正体を古狸と見抜いた猟師が射殺そうとすると、伯母は藪に隠れます。猟師が狸に腹鼓を打てば命を助けてやると言うと、喜んだ狸は正体を現して腹鼓を打って見せるので、猟師もその面白さに引き込まれて浮かれだします。隙を見て狸は猟師の弓矢を取って藪に隠れ、猟師は隠れているのに気づかず、狸を探して去って行きます。猟師が去ったのを見届けた狸は月を見上げ、ねぐらに帰って行きます。

 類曲に「狸腹鼓」があり、大藏流では「極重習」、和泉流でも「一子相伝」の秘曲扱いになっていますが、「射狸」は、大藏流八衛門派に伝わっていたものを、山本東次郎さんが1986年に復曲上演したものだそうです。
 「狸腹鼓」では、身籠っている狸ですが、「射狸」では、老狸です。最初にススキや秋の草花を飾った一畳台が舞台中央後ろの大小前に置かれます。東次郎さんは狸面に着ぐるみの上に尼装束を着て出てきて、数珠を持ち袖で顔を隠しながら猟師の則重さんに話しかけます。
 尼装束は一畳台のススキの陰で脱ぎ、狸の着ぐるみ姿になりますが、それにしても80歳を超える東次郎さんが、一畳台の花の上を越えて飛び降りたり、飛び上がったり、舞台上で転がったりと、そのエネルギーと俊敏さにはビックリです!
 腹鼓を打つところでは、お酒を飲んで楽しそうに観ている猟師にお酒をねだったり、一緒に腹鼓を打とうと手招きしたりする仕草が何とも可愛らしくて笑いを誘います。
 隙を見て弓矢を取った狸がススキの陰に隠れますが、猟師は狸を探して幕入り。藪から出てきた狸は橋掛かりの中程で欄干に両手をかけて上を見上げます。きっと綺麗な月が出ているのでしょう。余韻のある終わり方でした。

「木実争」
 橘の精が吉野山の花盛りを見物しようと出かけると、途中で茄子の精と道連れになります。山を登っていく途中で橘が「花は走り穂に咲いた」と言ったことから、橘が古歌に「吉野山たが植初めし桜だに、かず咲初むる花の走り穂」とあると言うと、茄子はそれは「花の初めに」だと古歌を引いての言い争いになり、橘が系図を誇ると茄子も風味を誇ります。橘が茄子に礼拝を求め、茄子が拒否したのでさんざんに打ち据えると、茄子は怒って去ります。
 茄子が仲間と押し寄せてくると聞いた柿たちは、橘に加勢しにやって来ます。そこに武装した茄子が仲間とともに押し寄せます。両軍互いに激しく戦いますが、にわかに激しい山風が吹いて来たので、それぞれに帰って行くのでした。

 橘の精と茄子の精が花見に行く途中道連れになるのですが、橘が古歌を引くと、それは違うと茄子がバカにするので、言い争いになり、ついに橘は茄子ふぜいとは違うのだと系図を誇って茄子に礼拝するよう求めるので反発する茄子。橘が茄子を打ち据えると怒った茄子が仲間を連れて仕返しに来ます。茄子軍と橘軍の大げんかの始まりですが、茄子軍は栗、胡瓜、西瓜、南瓜。瓜の三人は木の実ではないけれど、加勢に来たとのこと。橘軍は柿、桃、梅干し、葡萄。栗と桃は女で、梅干しは老婆、その他は茄子軍は「堅徳」の面で橘軍は「うそふき」の面です。
 茄子は那須与一にかけて弓の名手、栗は伊賀(イガ)のくノ一、柿は柿本人麻呂で歌の短冊を投げ捨てて戦うなど、ダジャレか、桃は桃尻娘で腰を振り、梅干しは梅干しばばあ、なぜ、梅じゃなくて梅干し(笑)。それぞれ頭の冠に茄子や柿、栗、桃などの実をつけた木がついて茄子の実が思いの外大きくぶら下がっているので、出て来た時、笑ってしまった。争っている時に、西瓜は葡萄の矢でパッカり割れたり、戦いにも工夫があって華やかで面白かった。
2018年9月21日(金) 国立能楽堂開場35周年記念公演
会場:国立能楽堂 18:30開演

仕舞「求塚(もとめづか)」
  高橋章    地謡:金森秀祥、大坪喜美雄、佐野由於、大友順

「見物左衛門(けんぶつざえもん)」深草祭(ふかくさまつり)
 見物左衛門:野村萬

『清経(きよつね)』音取(ねとり)
 シテ(平清経):友枝昭世
 ツレ(清経の妻):内田成信
 ワキ(粟津三郎):森常好
    笛:松田弘之、小鼓:成田達志、大鼓:國川純
      後見:香川靖嗣、塩津哲生、中村邦生
         地謡:佐々木多門、友枝雄人、金子敬一郎、大島輝久
             狩野了一、粟谷明生、粟谷能夫、長島茂

「見物左衛門」深草祭
 見物左衛門という男が、5月5日の伏見藤の森で行われる深草祭の見物に行くことにします。深草の祭りは具足(甲冑)姿の武者の渡り(行列)や駈け馬(競馬)の神事で知られていました。早めに到着した見物左衛門は、九条の古御所(藤原師輔の邸宅)の厩舎や馬、御殿の座敷の様子を眺めて過ごします。駈け馬が始まると、見物左衛門は急いで馬場へ向かい見物し、次は祭りの渡りを見ます。ふと目をやると人が集まって相撲をとっています。人垣の最前列に座り込んだ見物左衛門は、あれこれと相撲に文句をつけます。すると男たちが礫を打つので逆に打ち返し、ついに相撲をとって勝負をつけることになります。そして初めは勝ちますが、二度目には打ち倒され、「もう一度とろう」と追って行きます。

 一人狂言で、最初から最後まで一人で演じるので、やはり、萬さんや万作さんくらいになると一つ一つ丁寧に表現豊かで、周りの情景や人々とのやりとりが生き生きと浮き上がってきます。万作さんの方が軽みを感じますが、どちらが良いというわけではなく、持ち味の違いで印象が変わります。

『清経』音取
 平清経の家臣粟津三郎が、九州から都へ旅をし、主人の清経が豊前国柳ヶ浦で入水したので、船中に残された形見の髪を清経の妻に届けに行きます。都に着いた三郎は清経の妻を訪ね、清経が海に身を投げて亡くなったと伝えます。妻は清経の自死に驚き、嘆き悲しんで涙を流します。遺髪を渡された妻は、遺髪を見ればさらに悲しみが増してしまうと九州の宇佐八幡宮へ送り返してしまいます。そして、涙と共に眠りに落ちた妻の夢の中に清経の霊が現れます。
 妻は夢で逢えたことを感謝するも、清経が自ら死を選んだのは再会の約束を破ったことであると清経を責め、一方清経は遺髪を送り返したことで妻を恨み、お互いに恨みを述べて共に涙にくれます。
 清経は自らの死の経緯を語りはじめます。源氏に都を追われ九州に向かった平家一門は、敵がやって来ると聞き、船に乗って柳という所へ逃れます。宇佐八幡宮へ数々の宝を奉納しますが、平家の運はすでに尽きたという神の告げを受けてしまいます神にも見放されたと嘆く平家の人々は、再び船に乗り込み源氏に怯えつつ海を漂っていました。ある夜の暁方、世の無常を感じた清経は船首に立つと腰から横笛を取り出して奏で、今様を朗詠し、念仏を唱えると、海へ身を投げたのでした。
 語り終えた清経の霊は、修羅道の戦いの様子を見せ、しかし自分は最期に唱えた念仏のおかげで成仏できたことを告げて、消えて行くのでした。

 笛は藤田六郎兵衛さんの予定でしたが、急逝されたため、松田弘之さんが代役として勤められました。音取(ねとり)という小書(特殊演出)がついて、笛座から笛方が一歩前に出て地謡前に座り、揚幕の方を向いて笛を吹くと、その笛の音に引かれるようにシテの清経が登場します。橋掛かりをゆっくり静々と歩き、笛の音が止まると止まり、また笛の音が聞こえると歩き出す。本当に笛の音に引かれてと言う感じ。出の時から息を詰めて見つめてしまいます。
 前にも友枝さんの『清経』を音取の小書で観たことがありますが、友枝さんの演じる曲の中でもとっても好きな曲の一つで、今回も観たいと思いました。

 生きて再会を誓ったのに、戦で死んだのではなく、自殺するなんてと恨む妻と、遺髪を送り返したことを恨む清経。神にも見放され敗走する平家の有り様、この世の無常を感じて海に身を投げるまでを語り、最期には修羅道の苦しみも念仏のお陰で成仏できたと告げる。
 現世で再会を望む妻と現世を無常のものとして入水した夫。二人の間の越えられない壁。互いを想い合いながらもすれ違ってしまった夫婦の溝は埋められないまま。勝手に死んで成仏したという夫の幽霊の言葉を聞いても、残された妻の気持ちはきっと晴れることはないでしょう。女としては、妻の気持ち分かるなぁ。

 三渓園での野外能で本物の月の下に浮かび上がった『清経』は印象的でしたが、今回も舞台上に本当に月が見えてきました。
 いつまでも余韻の残る舞台でした。
2018年9月19日(水) 千作千五郎の会第四回
会場:国立能楽堂 19:00開演

鎧(よろい)
 果報者:茂山千作、太郎冠者:茂山千五郎、すっぱ:茂山宗彦  後見:鈴木実

舟船(ふねふな)
 太郎冠者:茂山千作、茂山七五三            後見:島田洋海

磁石(じしゃく)
 すっぱ:茂山千五郎、見付の宿の男:茂山茂、宿の亭主:茂山逸平
     後見:島田洋海

「鎧」
 鎧比べがあるので都で買い求めてこいと果報者に命じられた太郎冠者は、都のすっぱ(詐欺師)から、鎧のことを書いた巻物を鎧だと売りつけられて戻り、果報者に読んで聞かせます。聞かされるうちに次第にその気になった果報者が、おどす物もあるかと問うと、太郎冠者は用意の面をつけて脅しますが、果報者は逆に面を奪って太郎冠者を脅します。

 この演目は初めて観ます。持ち物比べのために主人が太郎冠者を都に買いに行かせ、太郎冠者が都のすっぱに騙されて違う物を買って帰ってくる話は狂言によくある話で、その後の展開が曲によって少しずつ違いますが、これは主人も鎧のことを知らないようで、太郎冠者が鎧だと売りつけられた巻物を読むのを素直に聞いていて納得しちゃうわけです。
 主人が「おどす物」と言った「おどし」とは、「縅=おどし:小札(こざね)と呼ばれる鉄片を革や組糸、綾紐等で綴じ連ねて作った鎧の製造様式」のことなのですが、太郎冠者も主人も「脅す」と勘違いしてる(笑)。そこで、太郎冠者が、すっぱから貰った箱(葛桶)を開けてみると、鬼の面(武悪の面)が入っていたので、これ幸いと面を掛けて主人を脅す太郎冠者、それを主人が奪ってやり返して終わる。鎧を知らないとは平和な世の中で、のどかな話です。

「舟船」
 西宮見物に出かける主人と太郎冠者が、やがて神崎の渡しに着きます。すると、太郎冠者が「ふなやーい」と舟を呼ぶので、主人は「ふね」と呼べとたしなめますが、太郎冠者は古歌を引用して「ふな」が正しいと言い張ります。主人も別の古歌を引き合いに出してやり返します。しかし、太郎冠者が別の古歌を次々に引いても主人は同じ歌を繰り返すだけで分が悪い。そこで謡の一節を思いついて「山田矢橋の渡しぶねの夜は通ふ人なくとも、月の誘はばおのづからふねもこがれいづらん」と謡いますが、つぎの「ふ」でつまってしまいます。そこで太郎冠者が続きを「ふな人もこがれいづらん」と謡うので、とうとう主人は「時々は主に負けていよ」と叱りつけます。

 おなじみの曲で、「ふね」か「ふな」かの言い合い。この場合は「ふね」が正しいのに、口が達者で、機転がきく太郎冠者に主人の方がやり込められてしまう話。古歌が一つしか思い浮かばない主人が同じ歌を早口で誤魔化すところが笑っちゃいます。言い負かされて悔しい主人が最後に叱りつけて終わり。
 千作さんと七五三さんの兄弟コンビ、歳が近いと太郎冠者が小賢しい感じがしないのがいい。
 休憩を挟んでとはいえ、2番続きで出演の千作さん。一時よりとても元気そうでした。

「磁石」
 田舎者が都に上る途中で、大津松本の宿を見物していると、人売りのすっぱが言葉巧みに近づいて、宿に連れて行きます。宿の主人は人買いで、二人が自分を売買する話を盗み聞きした男は、先回りして金を受け取って逃げます。後を追った人売りがすぐに追いついて、刀を抜いて振り上げると、男は実は自分は磁石の精だと名乗り、太刀を一口にのみこんでしまうと逆に脅かします。驚いた人売りが太刀を鞘に納めれば、男は力を失い、その場に死んだふりをします。人売りは太刀を供えて呪文で生き返らせようとしますが、起き上がった男は太刀を奪って、人売りを追って行きます。

 プログラムの配役が田舎者ではなく、見付の宿の男となっていて、名乗りでも「見付の宿(しゅく)の者」って言ってましたね。和泉流とは違うところなのかも。
 大柄な千五郎さんのすっぱ(詐欺師)が、痩せてて一見気の弱そうな茂さんの田舎者の機転にすっかり騙されてあたふたするところが面白いです。磁石の精なんて言う、ぶっ飛んだ発想も信じちゃう土壌があるのが中世の時代なのか、それともその頃もバカバカしいと思われてたのかはわかりませんが、突飛な発想にもっともらしい説明までつけて信じさせちゃうところが狂言らしい。昔の人の発想って時々とんでもないなと楽しませてもらえます。