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能楽鑑賞日記

2020年2月6日(木) 万作の会狂言の世界
会場:有楽町朝日ホール 14:00開演

解説:野村萬斎

素囃子「男舞(おとこまい)」
   大鼓:佃良太郎、小鼓:岡本はる奈、笛:八反田智子

「棒縛(ぼうしばり)」
 太郎冠者:野村万作、主:岡聡史、次郎冠者:深田博治   後見:月崎晴夫

「蛸(たこ)」吐墨
 蛸の精:野村萬斎、旅僧:野村太一郎、所の者:石田淡朗
     地謡:内藤連、高野和憲、中村修一、飯田豪
                           後見:石田幸雄

 萬斎さん、狂言の「このあたりの者」ということから、多様性・グローバリズムの話。一人一人の個性を生かしながら共生していくという話になり、やっぱり、東京2020オリンピック・パラリンピックに繋がる話になりました。

 素囃子「男舞」は勢いのある曲ですが、小鼓と笛が女性というのも珍しいです。

「棒縛」
 二人の家来が、留守番中に酒を盗み飲んでいると知った主人は、まず、次郎冠者を呼びだして、太郎冠者を縛りつけるので手伝えと言います。理由も分からず次郎冠者は、太郎冠者がこのごろ棒術の稽古をしているので、棒術の型を利用して棒に縛りつけようと知恵を出します。呼び出された太郎冠者が棒を使うと、示し合わせた二人は太郎冠者の両手首を棒に縛りつけてしまいます。案山子のようになった太郎冠者を笑っていた次郎冠者も、主人に後ろ手に縛られ、主人は二人を置いて外出してしまいます。しかし、残された二人は、やはり酒が飲みたいので、二人で協力して酒蔵を開け、酒を飲むことに成功します。そして、縛られたまま、飲めや謡えの酒盛りになります。そこへ帰って来た主人は驚いて、二人を打ちつけようとします。次郎冠者が先に逃げ、太郎冠者は、主人に棒で対抗しますが、怒った主人に追われていきます。

 萬斎さんが、「皆様の欲望を代弁している人が出てきます」と言っていましたが、縛られてもお酒が飲みたいという呑兵衛二人の姿はホントに笑っちゃう。棒に縛られてるから自分で盃を持っても口に持って行けない太郎冠者が、それでも飲もうとする様子や二人が縛られたまま謡い舞う様子が面白い。万作さんの太郎冠者が、いい味出してる。

「蛸」吐墨
 日向の僧が都に上る途中、清水の浦に着くと、そこに去年の春に死んだ蛸の幽霊が現れ、弔いを頼んで消え失せます。僧があたりの人に尋ねると、漁師が捕った大蛸を皆で食べたが、蛸の霊が夜な夜な現れるので、卒塔婆を立てて弔ったと言います。僧が供養をはじめると、蛸の霊が現れ、猟師の網にかかり殺されたありさまを謡い舞い、今の弔いで成仏したと喜んで消え失せます。

 能がかりで、夢幻能の様式を模した舞狂言です。幽霊が蛸というのが狂言らしい(笑)。前場で出て来る幽霊は老人の姿ですが、後場では、口のとがった「うそふき」の面に赤頭の上に蛸、赤い足が髪のように垂れてて頭に蛸のせてる感じです(笑)。僧の唱える声が「なまだこ、なまだこ」(笑)。
 「吐墨」の演出は、萬斎さんが考案したもので、以前にも観たことがありますが、能の『土蜘蛛』で蜘蛛の糸を吐く時に使う白く細いテープの束みたいなのを黒くしたのを投げて墨が広がるような様子を見せるのが、なかなか派手な演出です。
2020年2月2日(日) 狂言大藏会
会場:国立能楽堂 14:00開演

「大黒連歌(だいこくれんが)」
 大黒:大藏彌右衛門、参詣人:大藏康誠、参詣人:大藏章照
    大鼓:大倉慶乃助、小鼓:田邊恭資、太鼓:大川典良、笛:藤田貴寛
       後見:大藏基誠

「富士松(ふじまつ)」
 太郎冠者:大藏教義、主人:茂山忠三郎

小舞「鶯蛙(うぐいすかわず)」
 善竹忠亮、善竹忠重
   地謡:大藏彌右衛門、大藏基誠、大藏教義

素囃子「男舞(おとこまい)」
   大鼓:大倉慶乃助、小鼓:田邊恭資、笛:藤田貴寛

「節分(せつぶん)」
 鬼:大藏彌太郎、女:吉田信海

「無布施経(ふせないきょう)」
 住持:善竹彌五郎、主人:大藏吉次郎
                  後見:大藏彌太郎

「六地蔵(ろくじぞう)」
 すっぱ:大藏基誠、田舎者:茂山茂、すっぱ:大藏彌太郎、すっぱ:大藏教義
                  後見:吉田信海

附祝言

「大黒連歌」
 仲の良い二人の男が誘い合わせて、例年比叡山の大黒天に年籠りの参詣をします。神前で毎年恒例の連歌を詠み「あらたまの年の初めに大黒の・・・信ずるものに福ぞ賜る・・・」と今年の連歌を奉納すると、そこへ大黒天が来臨し、大黒天は自らの由来を語り、詠んだ連歌の面白さを褒め、宝を入れた袋や打ち出の小槌を参詣人に与えます。

 1月に和泉流の「大黒連歌」を観ましたが、大藏流は少し違って、二人の男が比叡山の大黒天に参詣して連歌を奉納する話になってます。
 参詣人の二人が基誠さんの長男康誠くんと彌太郎さんの長男章照くんという子供二人と大黒天がお祖父さんの彌右衛門さんという配役。
 子年にちなんで、大黒様の出て来るおめでたい演目が選ばれるんでしょうか。
 彌右衛門さんの大黒天は大黒様にしては、痩せて背が高く、気になるほどではないけれど、時々せき込んでました。
 参詣人役の二人が二人とも声が良く、康誠くんはお父さんに横顔がよく似てる。
 大黒天が比叡山延暦寺の守護神である大黒天の謂れを語ります。
 大黒天を子方がやることはありますが、お祖父さんが大黒天で孫二人が参詣人というのは珍しいのでは。萬斎さんが、大黒天をやる時はなるべく小さくなって、なんて話をしてましたから。
 でも今回は、達者な子供たちとそれを褒めて宝物を与えるお祖父ちゃんの構図が微笑ましくておめでたく、ほっこりした気分になりました。

「富士松」
 黙って旅に出た太郎冠者を叱りに来た主人に、太郎冠者は忍びで富士詣をしてきたと詫びます。それを聞いた主人は、許す代わりに太郎冠者が取ってきた富士松を庭木に欲しいと要求しますが、譲りたくない太郎冠者は、人に頼まれた物だと言い、主人が刀や馬と取り替えようと言っても相手が使えないからと言って断ります。太郎冠者は主人が機嫌を損ねそうになったので、富士の神酒を出してきて飲ませます。主人は連歌の付けあいを始め、太郎冠者がうまく付けられなければ松を取ると勝手に決めます。太郎冠者の家で一句詠んだあと、主人は山王権現の縁日に行く途中も連歌を付けていこうと言い、しきりに詠みかけますが、太郎冠者はすべてに見事に付け、面白くない主人は「あっといふ声にも己れ怖じよかし」と詠みかけると、太郎冠者は、この場の二人の関係を風刺して「けら腹立てばつぐみ喜ぶ」と付けて、主人に叱られます。

 太郎冠者が教義さんで、主人が忠三郎さん。無断欠勤の太郎冠者が帰宅したと聞きつけて、怒った主人が太郎冠者の家まで叱りに行くわけですが、作り声で呼び出して、叱りつけ、富士詣に行ったと聞いて許します。ここまではよくあるパターンですが、ここから向こうの様子を聞きたいのではなく、太郎冠者の持ち帰った富士松が欲しくて連歌の付けあいになります。
 忠三郎さんの主人が最初は怒って、きつく問い詰めるので緊張感があり、それが富士詣と聞いて、ころっと態度が変わります。教義さんの太郎冠者は、ちょっとお調子者の感じに見えるけれど、連歌は得意で、常に主人を超えていて、なかなかしたたか。太郎冠者の方が主人より教養があるっていうのも狂言ではよくあるけれど、最後は主人のご機嫌を損ね、調子に乗りすぎた太郎冠者が叱られちゃう。主人も太郎冠者の持ち帰った富士松が気に入ったからと言って諦めが悪いよね。

小舞「鶯蛙」
能『白楽天』の間狂言の舞だそうです。二人で相舞という小舞は初めて観ました。

「節分」
 節分の夜、蓬莱の島から豆を食べるために日本にやって来た鬼は、夫が出雲大社へ年籠りで出かけたため一人で留守番をしている女の家を訪れます。隠れ蓑に身を包んだ鬼は初めは見えませんが、蓑を脱いで現れた鬼の姿に女は恐ろしがります。女の美しさに心奪われた鬼は熱心に言い寄りますが、女に冷たくされて泣き出してしまいます。それを見た女はなびいたふりをして、隠れ蓑・隠れ笠、打ち出の小槌といった宝物を鬼から取り上げ、鬼が家に入って休んでいると、豆をまき始め、豆をぶつけられた鬼はあわてて逃げて行きます。

 この時期、よく演じられる演目ですが、やっぱり、怖がられているという認識がない鬼と、最初は怖がっていたものの泣き出した鬼を見て、反対に宝物を取って追い出そうと考える人間の女のしたたかさが面白くも、ちょっと鬼可哀そう。
 吉田信海さんの女は結構イケメンだから、まあ、鬼の美意識(笑)でも悪くはない。
 「毛抜きがあらば、眉が濃いによって抜いてやろうか」などと女にしつこくかまう鬼。大蔵流と和泉流の違いはあれど、こんな台詞あったっけ。なんか可笑しかった。これアドリブ?信海さん眉毛濃いめだし。

「無布施経」
 寺の住持が毎月決まって、ある檀家の家へ勤めに行きます。無事に勤めを終え、いつものように食事の接待や十疋(じゅっぴき)の布施が貰えるはずが、なかなか出てきません。住持は、それとなく主人に気付かせようと「フセ」という音を何度となく使ってみますが、主人はいっこうに気付きません。しかたなく帰ろうとしますが、とかくこのようなことは例になると考え直し、催促に戻ります。もちろん正面からは切り出せずフセという音をきかせた教化にかこつけて思い出させようとしますが、それでも主人は気付きません。やはりあきらめて帰りかけますが「布施無い経には袈裟を落とす」と言う言葉もある。どうしても布施のことを思い出してもらおうと、袈裟を懐に隠して再び檀家の家に引き返し、袈裟を落としたと告げ、その袈裟は銭十疋も通る穴を開けたので伏せ(ふせ)縫いにしてあるからすぐ分かると言います。ようやく布施を渡し忘れていたことに気付いた主人はいつもの布施を用意しますが、今度は僧が受け取れない。二人が布施をめぐってもみ合ううちに、僧の懐から袈裟が出てきたので、僧は面目を失い、主人に詫びます。

 最初に、寺の住持は、別の家に食事(とき)の誘いを再三受けていて、乞われて勤めに行った後、毎月の決まった檀家へ行くことを言います。自分のことを貧僧だと言い、毎月決まったお布施を貰えるのを当てにしているのが分かります。
 経を唱える時は「むにゃむにゃむにゃ」、貧僧なれど、僧侶としての建前があるから、はっきりお布施が欲しいとは言えない、でも生活が立たないから当てにしているお布施は欲しい。その葛藤が滑稽な行動となって現れ、やっと檀家の主人が気が付いて渡そうとすると、布施を催促したと思われるのは困るという僧としての建前からすぐ受け取るわけにはいかず、揉めるうち最後には嘘をついてまで引き返してきたのがバレちゃいます。「出にくいお布施が出ましたら、袈裟まで出ました」と・・・。
 いかにも品の良い彌五郎さんの住持が葛藤するところや、バレて「面目もおりない」と詫びるところなど、哀愁が漂っていました。

「六地蔵」
 田舎者が、辻堂に安置する六体の地蔵を、仏師に彫ってもらおうと都に出て、仏師を探していると、親切に声をかけてくる者がいます。実はこの親切者はすっぱ(詐欺師)で、自分こそが仏師だと言いだし、確かに六地蔵の由来を詳しく知っています。すっかり信じた田舎者にすっぱは「翌日までに作る」と約束をし、仲間を呼び地蔵に化けて田舎者を騙すことにします。さて田舎者が受け取りにいくと、因幡堂の後堂と脇堂に三体ずつ置いてあるとのこと、見れば、どこか印相がおかしいので、仏師に手直しを頼みますが、なかなか思い通りの印相になりません。何度もやり直すうちに、とうとう偽地蔵であることがバレてしまいます。

 和泉流では、シテのすっぱは仏師のままで、他に3人の仲間が地蔵に化けるので、仏師役が3人の偽地蔵を連れて堂を移動する時に田舎者と鉢合わせしてバレますが、大藏流では、シテのすっぱが仏師と地蔵の両方をやるので、面を付けたり外したりするうち、面がずれてバレます。目まぐるしく後堂と脇堂を移動するうち、印相がどんどんおかしくなっていくのが笑っちゃってドリフのコントみたいです。
 このすっぱ、六地蔵の由来を、元は一体だが、六道の苦げんを救うために六体になったと話して、田舎者を信用させるところなど、頭はいいようなんですけど、やっぱり抜けてますね(笑)。
 最後は逃げる3人を田舎者(茂山茂さん)が錫杖(しゃくじょう)を持って追いかけていきました(笑)。