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能楽鑑賞日記

2020年7月28日(火) 能楽公演2020〜新型コロナウイルス終息祈願〜(二日目)
会場:国立能楽堂 14:00開演

舞囃子「高砂(たかさご)」八段之舞
 武田宗和
   大鼓:河村眞之介、小鼓:幸信吾、太鼓:林雄一郎、笛:一噌幸弘
     地謡:武田宗典、武田尚浩、関根知孝、津田和忠

「釣針(つりばり)」
 太郎冠者:三宅右近
 主人:三宅右矩
 妻:高澤祐介
 腰元:前田晃一、河路雅義、吉川秀樹
 乙:三宅近成
                 後見:金田弘明

『清経(きよつね)』
 シテ(清経の霊):友枝昭世
 ツレ(清経の妻):狩野了一
 ワキ(粟津三郎):森常好
    大鼓:柿原崇志、小鼓:飯田清一、笛:寺井久八郎
       地謡:大島輝久、金子敬一郎、粟谷明生、長島茂、内田成信
          後見:香川靖嗣、中村邦生

舞囃子「高砂」八段之舞
 能『高砂』の後シテの住吉明神の神舞を舞う舞囃子ですが、神舞はテンポが速く颯爽とした舞です。小書の八段之舞というのは、後で調べたところ、舞の途中でシテが拍子を踏むとゆっくりになり、また拍子を踏むと速くなるの繰り返しで、シテと囃子方の気を揃えないとできない難しい舞のようです。普通のテンポの速い神舞よりゆっくりの舞が多い感じはしました。これは事前に調べておけばよかった。

「釣針」
 妻のいない主人と太郎冠者は、西宮神社の夷(えびす)様に参詣して、妻を授けて欲しいと祈願します。すると、夢のお告げで望みの物が釣れる釣針を手に入れ、さっそく妻を釣ることにします。太郎冠者が釣針を投げると主人の妻が釣れ、また腰元も釣り上げます。最後に太郎冠者の妻も釣り上げ、主人が妻と腰元を連れて帰った後、太郎冠者が自分の妻と対面すると、あまりに醜女なので、あわてて逃げ出します。

 いつも萬斎さんの太郎冠者で観ることが多い「釣針」ですが、年配の右近さんの太郎冠者はイメージが違って、これも面白いです。
 萬斎さんだと、釣り上げる前の謡い舞いがノリノリで、特に自分の妻を釣る時は普通より高く跳んだりしますが、右近さんは謡い舞いはサラッと、さすがに飛び跳ねたりはしないですね。でも、若い主人に対して、年配の太郎冠者が自分も妻を釣りたいという、ちょっと恥ずかしそうで嬉しそうな雰囲気が出ててやっぱり面白かった。
 腰元がぞろぞろ連なって出て来るところはやっぱり可笑しくて笑っちゃう。太郎冠者の妻役の近成さん、ホラーな感じが出てました(笑)。
 妻を釣り上げるとか、醜女だから逃げ出すだとか、女性蔑視な話ですが、それでもホラーな感じで追いかける妻とか、お調子者で浅はかな男たちをバカだねと笑えるのが狂言。

『清経』
 平家の公達清経は、一門と共に都落ちをしますが、前途をはかなんで海に身を投げます。清経の家臣の粟津三郎は都に残る清経の妻の元に遺髪を届けに行きますが、妻は敵に討たれたのではなく、自分を残して自ら死んだ夫を恨み遺髪を受け取ろうとしませんでした。その夜、妻の夢枕に清経の亡霊が現れます。妻が自分を残して自殺した夫を責めると、清経は遺髪を受け取らない妻に恨み言を言い、さらに平家一門の栄枯盛衰や自身の最期の有り様を語り聞かせ、成仏できたことを告げて姿を消します。

 平家の嫡流である清経は、かつて栄華を誇った平家が戦に負け続け、九州まで落ちていくのを阻止出来ない自分に対する絶望感と神にも見放された状況の中で、死を決意し、自分の美学を守ろうとします。船首の板に立ち上がって横笛を吹き、今様・朗詠を吟じ、この世を旅と観じて、入る月に如来を祈って入水します。
 それに対し、妻はどんな状況でも夫に生きて戻って来て欲しかった。幽霊ではない夫に会いたかったという思いがあり、二人の思いは最後まで交わることなく、永遠に引き裂かれてしまいます。

 揚幕から橋掛かりをスルスルと登場する友枝さんの清経がやはり美しい。狩野さんの妻との相容れないやり取り、己の美学を通し、一人成仏したと去りながらもどこか妻への思いを残しているように感じられ、切ない。

 いつも『清経』に感じるすれ違う夫婦の思いとその永遠の別れが美しさの中に、より鮮明になり、切なくいつまでも余韻が残りました。
2020年7月27日(月) 能楽公演2020〜新型コロナウイルス終息祈願〜(一日目)
会場:国立能楽堂 14:00開演

『翁(おきな)』
 翁:観世清和
 三番叟:野村萬斎
 千歳:観世三郎太
 面箱:野村裕基
    後見:上田公威、武田宗和
    後見:野村万作、野村太一郎
      大鼓:亀井広忠、小鼓頭取:大藏源次郎、脇鼓:荒木建作、清水晧祐
      笛:松田弘之 
         地謡:坂口貴信、上田貴弘、観世銕之丞、浅井文義、山本章弘

「末広(すえひろがり)」
 果報者:大藏彌右衛門、太郎冠者:大藏彌太郎、すっぱ:大藏吉次郎
                      後見:大藏基誠

半能『石橋(しゃっきょう)』古式
 シテ(親獅子):金春憲和
 ツレ(子獅子):辻井八郎
 ワキ(寂昭法師):原 大
     大鼓:原岡一之、小鼓:曽和鼓堂、太鼓:梶谷英樹、笛:杉市和
        後見:金春安明、本田芳樹
          地謡:鬼頭尚久、佐藤俊之、高橋忍、井上貴覚、中村一路
        台後見:山中一馬、野村雅

『翁』
 天下泰平、国土安穏、五穀豊穣を祈る神事の『翁』、新型コロナウイルス終息祈願も込めて、場内も静まり返り、まず面箱を掲げた裕基くんが静々と橋掛かりを進み、厳かに粛々と始まりました。
 観世宗家の翁は力強い声で祈りを込め、荘厳な空気で包まれるようでした。
 萬斎さんの三番叟、「揉ノ段」では、正面舞台から橋掛かりまで走り出て舞う新演出で、いつにも増して力の入った「揉ノ段」。「鈴ノ段」は、厳かに、キレの良い動きで段々神懸ってくるような高揚感のある舞いでした。

「末広」
 主人から「末広がり」を求めてくるよう命じられた太郎冠者は都へ行きますが、「末広がり」がどのようなものか知らない太郎冠者は、都のすっぱ(詐欺師)に古傘を売りつけられます。主人から言われた末広がりの特徴に巧みに合わせるすっぱにすっかり騙された太郎冠者が喜んで買い求めると、すっぱは主人の機嫌を直す囃子物を教えてくれます。急いで戻った太郎冠者が末広がりを主人に見せると、主人は、末広がりとは扇のことで、これは傘ではないかと叱り、家から追い出してしまいます。困った太郎冠者は都で教えられた囃し物のことを思い出して謡ってみると、やがて主人は囃し物に浮かれて機嫌を直し、太郎冠者を再び家に招き入れます。

 「戯れ絵(ざれえ)ざっと」と、主人が子供の戯れる絵が描いてある物という意味で言ったものを柄で戯れるとすっぱに教えられて、主人に傘の柄を突き出すところがいつも笑える。怒った主人に追い出されて、よく考えれば、これは台所にたくさんある古傘だと気付くあたり、「遅いよ」とつっこみを入れたくなるけれど、囃子物に浮かれ出す主人、機嫌を直す囃子物を教えたすっぱ、誰も本当に悪い人はいない、おめでたさでほっこりします。

半能『石橋』古式
 寂昭法師が、中国山西省の清涼山に来て、有名な石橋を渡ろうとすると、童子が現れ、この橋が石橋で、その向こうは文殊菩薩の住む浄土であることを教えます。この橋は石自体が自然と対岸へ続き、幅一尺もなく苔が生えて滑らかで、長さは三丈ばかり、谷の深さは千丈以上に及び、下を見ると足がすくみ気を失うので並の修行者では渡れぬ危険な橋だと言い、ここで待てば奇瑞を見るであろうと告げて姿を消します。やがて橋の向こうに文殊の使いである獅子が現れ、咲き匂う牡丹の花のあいだを勇壮に戯れて舞い遊んだ後、獅子の座(文殊菩薩の乗り物)に納まります。
 半能は後半のみで、寂昭法師が現れて次第を語ってワキ座に控えると、親子の獅子が現れて、正先にずらして置かれた2つの一畳台の端に挿された紅白の牡丹に戯れて勇壮に舞を舞います。

 寂昭法師のワキ方の原大さんは初めて観る方でしたが、声が良く、後で調べたところ、ワキ方高安流の40代の方でした。
 獅子は最初幕が半分上がって姿を半分だけ見せ、一旦幕が下りて静かになってから囃子に促されるように橋掛かりに登場します。シテの白頭の親獅子は金色の獅子面に装束は白地の金の模様、赤頭の子獅子は赤みを帯びた獅子面に紅地に金の装束。子獅子は勢いよく元気に動き、親獅子は威厳をもって動きます。小書の古式というのは金春流だけの小書のようですが、どこが違うというのは良く分かりませんが、他流の獅子より派手な動きが少ないようで、その分厳かな感じがするような気がしました。

 普段より地謡の人数を減らし、『石橋』では地謡は灰色の布をマスクのように垂らして付けていました。
 観客や係の人は全員マスク、入口での検温と消毒、冷房は入っていますが、ロビーの窓も一部開けられていて、席は一松模様のように前後左右一席ずつ空けてあります。もぎりは自分でもぎって箱に入れる。国立能楽堂は一列目も舞台から2メートルは離れているので、ソーシャルディスタンスは保たれています。会場のドアは閉めず、黒い布が下げられていました。帰りも混まないように放送された順番に退出。コロナ禍でできうる限りの対策をしての公演でした。色々な舞台が中止や延期になり、たいへんな時代ですが、新しい基準を守りながら、少しづつ再開され観る機会が得られるようになるのはありがたいことです。
2020年7月19日(日) 「萬狂言 夏公演」
会場:宝生能楽堂 14:30開演

解説:野村万蔵

「福の神(ふくのかみ)」
 福の神:野村万禄、参詣人:野村拳之介、野村眞之介
    地謡:山下浩一郎、野村萬、野村万之丞、河野佑紀

「瓜盗人(うりぬすびと)」
 盗人:小笠原匡、畑主:能村晶人
     笛:八反田智子

「文蔵(ぶんぞう)」
 主:野村万之丞、太郎冠者:野村万禄

「酢薑(すはじかみ)」
 酢売り:野村萬、薑売り:野村万蔵

 「笑いの力で元気になろう!ソーシャルディスタンス狂言会」と銘打って開催の狂言会。客席だけでなく、狂言もソーシャルディスタンスのとれているNO密な曲を選びましたとのこと。
 万蔵さんの話で、非常事態宣言で、すべての公演、狂言教室などのお稽古、学校関係などすべて中止で、身内の稽古ばっかりしていたとのことです。6月末から公演が始まり、今回が3回目の会で、ゆっくりゆっくり、狂言でいう「そろりそろりと参ろう」というところだそうです。
 狂言はソーシャルディスタンスが出来ているものが多いということで、例えば主人が太郎冠者を呼びだす場面、主人がワキ柱側に移動して、呼ばれた太郎冠者は「は〜」と、わざわざ対面のシテ柱側に立つことなどをやってみて、狂言は空間を広く使うという話をされていました。それに今回は大爆笑するようなものは用意してないので大丈夫。にこにこしてもらえるものを揃えましたとのことでした。
 最初の演目解説では「福の神」と「瓜盗人」について、後半の「文蔵」と「酢薑」は休憩時間の後、簡単な演目解説がありました。そして、最初と最後の演目は笑い留めで、笑いで〆るようにしたとのことです。

「福の神」
 二人の参詣人が、恒例の年籠り(大晦日の参詣)をしようと、連れ立って出雲大社へ出かけます。神前で参詣をすませた後、さらに福の神の御前で拝をし「福は内、福は内」と囃しながら豆をまきます。すると、大きな声で高らかに笑いながら福の神が現れます。福の神が二人に参詣の理由を尋ねると、富貴になりたいが元手がないので福の神に歩を運ぶのだと答えます。そこで福の神は、元手とは金銀米銭のことではなく、仁義礼智信の五常を守る心のあり様こそが元手であると諭します。また富貴になるための心得や徳を説き、自分のような福の神には神酒や供え物をたっぷりせよと、謡い舞い、二人を祝福します。

 参詣人は、若い拳之介さんと眞之介さんの兄弟に、福の神が万禄さん。たしかに大笑いするような演目ではなく、おめでたくてニコニコするような演目。万禄さんの福の神の面が万禄さんの素顔になんか似てるような感じで違和感なさすぎて可笑しかった。元手は金銀米銭ではないと言いながら、お酒はかなり好きそうな福の神。高らかな笑いがめでたさを増幅させて、なんか楽しくなる曲で、コロナも吹き飛ばしてくれそうです。

「瓜盗人」
 瓜畑の畑主が見回りに来ると、瓜が色づき始めているので、鳥獣除けのため垣根を結い案山子を作っておきます。夜になり、男が瓜を盗もうと畑に入り、夢中で瓜を探していると、誰か人がいると思い驚きますが、案山子だとわかり突き崩して帰って行きました。翌日、瓜畑が荒らされているのに腹を立てた畑主は、今度はみずから案山子に扮して盗人を待ちます。そこへまた男がやって来ますが、案山子の顔を見て、地元の神事で行う鬼と罪人の責めの稽古を始めます。案山子に扮した畑主はころあいをみて案山子の衣装を脱ぎ、驚いて逃げ出した盗人を追って行きます。

 垣根を壊して瓜を盗みに入った男が人だと思って、びっくりして平伏するものの案山子と気付くと腹立ちまぎれに案山子を壊し、畑の瓜の蔓まで抜いてぐちゃぐちゃにして立ち去ろうとしますが、一度行きかけて戻り、取った瓜を全部懐に入れて抱えていく仕草が面白かった。まあ、翌朝畑の様子を見た畑主が怒るのもあたりまえ。その晩も、瓜盗人がやって来て、昨日盗んだ瓜を人にあげて、また食べたいと言われたので、のこのこやって来た。垣根が壊れたままだったので、畑主は見回りに来てないと思って畑に入り、案山子に会うと、何を思ったか、祭りの稽古をはじめちゃうというのが、警戒心が無くてバカですねえ。畑主も盗人が後ろを向いた時に竿で叩いて、盗人がこちらを向くと紐を引くと竿が倒れると思わせて案山子になりきってるところがまた面白い。

「文蔵」
 太郎冠者が自分に暇も乞わず出かけたことに腹を立てた主人は、昨夜、太郎冠者が戻ったと聞き、太郎冠者の家へ叱りに行きますが、京内参り(都見物)をしてきたと詫びるので、許し、都の様子を尋ねます。太郎冠者は東福寺の伯父の所へ立ち寄り、珍しい食べ物を振舞われたと言いますが、その名前を思い出せません。しかし、日頃主人が読んでいる本の中に出て来る物だと聞き、その食べ物の名前を知りたい主人は、「源平盛衰記」の石橋山の合戦を物語り始めます。すると「真田の与一が乳母親に文藏と答ふる」というところで、太郎冠者はやっと思い出し、その文藏を食べたというので、主人は、それは釈迦が師走八日の御山出でに食べた温糟粥(うんぞうがゆ)のことだろうと言い、主人に骨を折らせたと叱ります。

 主人の仕方語りが見どころな曲で、ベテランがやることが多い曲に万之丞さんが挑戦。太郎冠者の食べた物を思い出させたくて語りだした「石橋山の合戦」ですが、段々ノッてきて手振り身振りにも力が入ってきます。途中、別の食べ物の名が出たところで太郎冠者に確認する場面はベテランだとフッと肩の力が抜けて笑ってしまうのですが、まだそこまではいかないけれど、まずは語りしっかりが肝心で良かったです。

「酢薑」
 津の国の薑売りが都に上り商売をしようとすると、和泉の堺の酢売りがやってきて目の前で酢を売り始めます。薑売りが自分に断りなく売らせることはならないと言うので、互いの系図をそれぞれ語ります。しかしどちらも譲らず、商売ものによそえた秀句(しゃれ)を言って勝負をつけることにします。道々目に触れるものを挙げては「カラい」「スっぱい」などと秀句を言って二人で笑いあい、いつまでたっても決着がつかず、酢と薑は縁のある食物だからと今後は仲良くすることにして、笑って別れます。

 薑は現在では生姜をさすことがほとんどですが、昔は山椒のことをさし、山椒の若い小枝の樹皮は辛皮(からかわ)と言って香辛料に用いられたそうです。後半は「カラ」と「ス」の言葉に掛けた秀句の言い合い、まあ、オジサン同士のダジャレ合戦みたいなもんですが(笑)。この秀句のかけあいが本当に楽しそう。
 「蓼湯なれど、辛くなく、梅水とてもすっぱくもない」という秀句では蓼湯とたて湯(わきたつ湯)、梅水とうめる水を掛けているそうで、洒落た秀句も出てきます。秀句のかけあいですっかり仲良くなった二人は、酢と薑はどっちも大事、相商にしようと、一緒に商いをすることにして、最後は明るく笑って帰っていきます。

 萬さんと万蔵さんの息の合った掛け合いが見事で、今日一番笑いました。楽しかった。

 終演後、笛方の八反田智子さんが切戸口から出てきて笛を吹き、それに合わせて出演者が揚幕から登場。最後に萬さんと万蔵さんが衣装のまま切戸口から出てきて全員が揃ってご挨拶。萬さんから観客の皆さんへのお礼ということで、お話がありました。祖父の時代は明治維新があり、父の時代は戦争での焼失という苦労を生き抜いてきたこと。今回の新型コロナのことは、未曽有のことではありますが、新しい形で乗り越えて行かなきゃならない、という決意と、これからもご支援よろしくお願いしますというお話がありました。